光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

旧散歩道を行く

2008-10-05 18:58:37 | 散策
  ゴロリンと、横になっていると、牛にはならないが、だるくなるのも本当のようで、でも習慣というものもあって、これがせめぎあう。本能というものもあれば、習慣があり、かったるさがあって、依存がある。色々ややこしい関係で結ばれている。ゴロリンとしていなかったきょうは、

  手ぶらで歩くことは決まっていたが、なかなか一歩前に進むことがなかった。何か探し物でもしていたのか、振り返る。早いときはあっさりと一歩進む。遅れてはいなかった。靴を履く。手ぶらでゆくはずが、ただ傘を持ったのは雨が降りそうにも思えて、もしかしたら杖にもなるからで、これで安心した。
  今年はコスモスに関しては当たり年というか、早くから咲くもの、途中だれながらも持ち直すもの、今頃にコスモスらしく出て来るものありで、しかもきょうは午後はゆっくり目の風であって、まさしくコスモス日和だった。旧散歩道ってなにという疑問がわく。最近歩くことが減った、昔はよくその道を歩いた、というところ。

  年月とともに大きな変化があり、また日常の小さな変化もあって、ことしは、キカラスウリの花こそ出たけれど、そのあとが続かない。キカラスウリはあって、しかし何度か、草刈りが行なわれた後のものだと、もう花は咲かず葉っぱだけが残るようで、その次の、ここによく出していた、キカラスウリの運命も似たような感じになったと記憶している。そのとおりで、梅の木に「キカラスウリ」はまつわり付いていない。いないようだった。じっくり眺める必要もなかったと思うが、梅の木も元気がなかった。これは、ここの梅も同じである。キカラスウリの実がなっているところというのは、見つからない。

  旧散歩道も、分岐する。ここから少し変化して、これもなくなったかも知れないと思った、赤い実のなる木はあった。最初にこの赤い実を見て、何という名の植物かわからなかったが、ピラカンサとわかると、これは国語百科にも出ている。大きくなるらしい。そうかな、それに赤い実がびっしりなる。これはそのとおりだった。あとはトゲがあって、これは防犯上はよいが、自分が手入れをするときに危なく、あっさり剪定すべきとあって、なるほどねとも思うが、この赤い実のなる不思議な名前の植物は、記憶に残った。
  その先に進むと、まー謎の地帯があるが、こうゆうところはあちこちにあるようで、特に謎でもないともいえる。ここにも小さなピラカンサがあった。正確に書くと、実が小さいピラカンサがあって、その木は順調に生育し、かなり大きくなる。こうなると、花も多いし、必然的に実の数も多く、見ごたえのあるものが、想像される。これが、カメさん泣かせで、つまり思うようにいい感じにはならない。

  この木は大きくなるはずで、これも今年の春だったか、剪定されてというより、無くなったかのようにも思われた、どこにもあの木がない。不思議な土地でもなく、人の手で、きれいにされたのである。で、驚くことでもないけれど、何と小粒の実のなるピラカンサは健在で、しかしコスモスのように当たり年のようではないようで、色具合などもよくないようである。
  多くの植物は剪定されるようでしかも庭木だとそうなる可能性が高い。しかし、実とか、特に花はちゃんと咲かないといけないと思う。そうでないとねー、何のための剪定かと思ってしまう。よその人のうちのことだけど、そう思ってしまう。この小粒のピラカンサは他のご家庭にもあることは、すぐにわかったが最近は歩いていないから、今の秋のピラカンサの色というのもどうなのか、はっきりしない。しかし、ピラカンサは残っている。これは確かなようだ。

  もう終わりというところ、まー終わりでなくてもいいけれど、ギョギョっとしたことは、ここのおうちは珍しく木々に囲まれて、うらやましいなど思っていた、そこで、大きなケヤキの木がなくなっていたこと。根元に切り株が残っていた。さすがに、根っこから引き抜くことはやらなかったようだ。ウーン、こう簡単に大木は切られてしまうのかな、いろいろご事情もあるのだろうけれどもったいない。特に道に面してもいなし、いい大木で、もうこれくらい大きいとそう簡単に台風でも倒れないと思うけれど。やはりこれ以上大きくなると、そのあとが大変と考えられたのだろう。たしかに、そうゆうことは考えられる。残念だ。ただ散歩道の後半は、少し前にミニを持って歩いていたから、この木は相変わらず大きいと思って撮っていた。

  だらだら、長くなりそうで、疲れても来た。




  白い。やけに白いスイフヨウ。赤味もあるが、この写り方は珍しい。




  コスモスの大草原というのを、病院の回廊で見た。まったくキレイで、どこにこんなものがあるのだろうか。
  こちらのお宅のコスモスもありがたいことに、花は多い。




  キバナ、その他。




  暑いと、溶けてしまいそうな、そんな感じもする。




  最後も白で、ニラの花。今も咲いている。何度か咲くのだろうか。この花も珍しく、やけに白く写っているようで、撮像素子の変調か、太陽光が特別だったか。

朝に光るもの

2008-10-05 16:13:55 | 散策
  雨になって、ほどほどと思える降り方。

  朝は、雲の多い、晴れで、なぜか号砲がなった。
  わけのわからない、ドーンという音はときどきする。
  まーなんにも起こらないから、そのままあー音がしたで終わりだ。
  一々、気にしてはいられない。

  さほど暑くない、お昼過ぎの時間ただただぶらぶら歩いていたが、
  遠くのようで近いところで拡声器、古いかな、スピーカの音がする。
  選挙もあるから、それで選挙カーが走っているのかと思ったら
  違った。選挙の告示日こそ、そのような音があったが、
  今はもうそれはない。そうゆう意味でこの辺りは静か。

  その拡声器の内容から、運動会をやっているようであった。
  朝のドーンという音も、その合図かな。

  きのうはちょっと暗めの朝だったので、きょうは明るめの朝に。





  まあるいススキの花穂が輝いた。




  臭うらしい、蔓性の植物の花も実を付けて、かなり時間がたつ。
  実は色を変えて、これも輝く。




  なんだか白っぽいが、蜘蛛の巣を意識している。全体にまあるく
  広がっていて、しかし中心に向けて落ち込むようであって、
  アサガオみたいな感じは大袈裟だが、面白い構造をしている。  

曇りで、朝日の日曜の朝

2008-10-05 07:01:40 | 散策
  朝のお天気、雲り。まだ雨にはならず、秋の雲から朝日が顔を出す。なぜか新鮮で、しかしこの今の椅子の位置からでないと、そのよさはわからない。風がある。南の風、今日も南の風。珍しい。アメダスの6時の気温17.0℃、気圧は1016.6hPa。室温20℃、変動がある。
  
  日焼けした感じの顔。鏡を見て、特にむくれていないか見てみる。大丈夫そうだ。
  もうそろそろ冬物の準備をしないといけないと思い、思いつくことをカードに書いて、その辺に置いてあるが、買い物というのは楽しいようで、面倒に思える。そこにCMがあってこれはよさそうだなど思うわけだが、例えば今はもうやけにショボク見える、薄型のTVを買い替えたいという欲がある。つい少し前、TVの最小買い替え時間は10年だと書いたばかりだが、それはブラウン管時代の発想で今は違うなど、簡単に宗主換えも出来る。何度、PCのモニタを買い変えたか。それに比べると、
  TVは、やけにのんびりした時間を過ごしている。いいTVというのも妙だが、そうゆうものもやがて値上がりするかも知れず、買い時は今だ、など思ったりする。

  いざそのものが来る。小さくて大きい。なんだ、この箱は。CMにはそんなものは写ってなかった。それに、このコードの多さと、さらに接続端子だって、やたらたくさんある。こんなもの、昔のはなかった。それに、リモコンを見ると眩暈がする。これも、CMには出ていない。リモコンを持って、さてどうすれば写る、そうゆう女性が写っているCMを見ると、親しみもわくようだ。それに一番むつかしいのは、持つところなさそうな、薄型TVを箱から取り出すこと。モニタの画面に一切触れず、力を加えるなんて、絶対にだめ。取り出せないぞー。まったく頭をかく。
  こうゆう経験が、購買意欲をなくすようである。またさほどTVも見ないし、スイッチを入れてもチャンネルを替えて、すぐに消してしまうし。ものを買おうと思うのは簡単で、買ったときを想像するとその情熱も消えうせるようだ。

  きのう朝に書こうと思って、忘れていたことに、虫の事故死というのがある。虫だから、気が付かないものだが、哀れにもそれまで飛んでいたはずのものが、ペちゃんこになっている。このチョウもまったく気の毒だ、など思う。翅の色から、ツマグロヒョウモンのメスだと思った。やがて、粉々になって空中に舞うだろう。このチョウはあまりにも、ゆっくりと滑空しすぎる。
  同じようで違うのが、カマキリで、これは玄関から先で朝だったが、黒い棒のようなものがあるなと思い少し近寄ると、カマキリの最後で、そのまわりに掃除屋さんがいた。蟻である。このカマキリ、コンクリートの上を歩いていたのだろう。自分が踏んづけたかも知れない。ここまで大きくなってこれで最後とは、ちと悲しい。虫の運命も様々である。