光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

柿の実は一つ残った

2007-11-13 19:18:29 | 散策
  きのうが寒かったので、そろそろコタツも出しておかないといけない。コタツは、いつも出しっぱなしなので、大げさに、ガタガタ、ドタバタやることはないが、ただ、かなり昔のもので、それゆえ長持ちしているようだが、ただ塵やらゴミは、人並みにかぶっている。その他、年代ものゆえの、問題もあって、これは、触れないほうが、つまり書かないことと、それに手だとか足だとかで触らないようにする、という解決法が、すでに大体だが出来ている。それをやろうとして、案の定忘れた。
  今日はすこし暖かである。でも、あまり気分はよくない。そうゆう日があって当たり前なのである。それで、あるときと比べるとかなり体重が増えているようで、これを測るのがすこし怖い。私は、注射はぜんぜん怖くない。痛くないですよと、まるで赤子を相手にするように看護師さんは言うが、そんなことはない。当たり前である。少し痛いですよという看護師さんが好きだが、そうゆう方はあまりいない。
  採血の注射は、適度な痛みを持つ。血管に入れないといけないし、実際のところは、看護師さんもすこしびびっている。うまく入らない方がおられる。点滴も似たようなものだが、太い針を入れるときは、本人がかなり弱っているので痛みがどうの、など、言ってられないし、本人も何とも思わないが、しばらくして、少し元気が出て、さて、何でこんな太い針が私の腕に刺さっているのか、不思議と思うときがあるが、これまた、ガーゼか包帯で針は隠れていて、その恐怖を体験するのは、その針を抜く時である。

  体重が増えた、お腹が出っ張ったということを十分認識しているが、普段はやはり忘れる。それより、お腹がすいているという感じはなくても三食きちんと食べる。が、あるとき突然これって大丈夫か、という不安に襲われるのも、これまた事実である。これは、体重だけに限らない。なにかが増えるというのは、これが例えば、知識と教養、筋力と持久性みたいな組み合わせならいいが、そうゆうことは稀で、
  それ以外のことが、多い。買い物がある。いつも安いものばかり買っているわけでもなく、TVなどは一応すでに薄型である。さらに、デジで有機液晶はない?、プラズマというTVも出てきていて、何のことだか全くわからないが、手元にそれを閲覧する道具はあるから、ついつい勉強のためにそれを見てしまったりする。
  ある人に、ここにあるTVは薄型かと聞かれた。さらに、これは、ほら何とかって言っているでしょ、その、その内、普通のTVでは見えなくなるから、何とか対応っての、それって、このTVはすでに対応しているの。まったく嬉しい質問をしてくれる。
  しばらく、デジがどうのこうの、それに薄型って見ればわかるでしょなどいい、さらにTVには走査線というのがあって、それが何本走っているかで、ハイビジョンかどうかが決まるなど、講釈も始める。でも、そのうち、かなり早く、その話しは止めた。話しても無駄とは言わないが、こうゆう話しより、やはり芸能界の誰々さんが、どうなったあーなったという方が、この方の日常でその話しは楽しそうにやる。それで、

  私は、やはりハイビジョンの説明がうまく出来なかった、ということを後悔する。すると、また、ある装具を使って、今時の薄型の、”ディジで、地上”というのはいかなるものか、探索したりする。が、今のところ、これはこの辺りで止まっている。止めないといけない。それ以外でも、色々なものは増え続ける一方。


  ここまで書いてきて、画面に、投稿日時、トラックバック、投稿ボタン、プレビューなどの、項目の部分が”出てない”ことに気が付いて、慌てて、文のコピし、別のtxtファイルに張り付けた。びっくりして、何だか、おかしなものが余計おかしくなった。もう一度、新規投稿を呼び出して、張り付けたら、どうにかうまくいった。びっくりー。


  柿の木の実が、鳥にだんだんと食べられて、それがついに一個になってしまった。ざっと確認して、確かによくわからないところもあるが、少なくなったということを強調している。

  2週間以上前、10月28日のものに柿の木があって、引っ張り出してきた。



  葉っぱも多いが、実もまだまだある。それが今日になると、



  見た目だが、”一部のところ”ではあるが、残っているのはこの一つだけのようだ。きのうで、もう2、3個というところ。ここの柿は人気があるのか、それはわからない。ただ、まだまだ先は長いので、すこし心配。  

小菊スケッチ帳

2007-11-13 15:21:38 | 植物・花(秋)


  植物愛好家の、大型の菊の鉢がTVで、新聞で、あるいは道路の淵で並んでいるのを見ることが出来る。この書き込みを忘れていた。ここにもたくさんある。
  負けず劣らず小菊もがんばっている。奮闘している。毎年咲くし、たくさんの花を付ける。これでもか、っというくらいの花が咲く。それで、チョウが花に吸い寄せられるように、私もついふらふら、小菊の方に寄ってゆく。ここで、音をたてず、ボタンを押す。少し身勝手か。
  新聞に、秋の花や、秋のくだものの絵が載ることがある。毎日載っている。なかなかいいもので、文字も絵になる。もう文字など要らないかも知れない。ぞれに比べて、音もたてずファイルにするのは、後ろめたい気にもなぜかなる。

あるものの時間は止まったまま

2007-11-13 07:25:07 | 散策
  朝の天気、曇り。夜は、シトシトだった気もする。風が吹いているが、南風のようで雲は北から南に流れている。乱風気味。室温14℃。
  今日の天気予報、雨から晴れ。きのうと違う。当然か。

  PR誌を見ていて、知らない時代についてのものが記憶に残った。昭和30年代。知らない、というのは記憶にないのか、生まれてないのか、色々だが、どっちかわわからない。
  あるものの時間性というのは止まっている。例えば、スーパで298円の値札が付いているとすると、それは私は高いと思う。あくまでも例えばで、今どき298円という値を見る事は少ない。高くても、買うときは買う。物の値段、普段必要なもの、日常生活に必須なものの値段の概念は、ずっと昔に、その時計は止まったままである。
  今、この辺りから、街の中央まで、公共交通機関を利用してゆくとすると、片道で、500円はする。それで、大きな駅まで着くことは着くが、今度はまた次のものが待っている。これは、昔ながらのちんちん電車で、値段は一定のようで、200円くらいかも知れない。街に、ちょっと散歩する、買いたい本を買いにいくのに、片道700円が必要となる。それで、1000円の雑誌なり本を買うということになるが、これでは、なんとなくぼんやりした一日になってしまう。とてもじゃないが正気ではいられない。この、公共交通時間は、私にとってはずいぶんの未来の物語か、ありえない話しなのである。タイムトンネルで、未来にいっている話し。時計が動いている話しになった。

  見掛けというのは、何やら難しい。遠心力、コリオリの力というのは、よく登場する。これが、見掛けの力の代表らしい。何のことだかわからない。遠心力というのは簡単に実感できるから、さらになぞは深まる。これは、見掛けの力であるというのは、もうずっと昔、16世紀ごろ、もっとも昔、紀元前にも、わかっていたかも知れず、私のこの辺りの認識力の時計は、さらに昔、さかのぼった時間で止まったままである。
  昔の時代に戻ると、例えば、私は、祖母を思い出すことが出来る。その当時に、やっぱりこの辺りは田舎で、祖母は今考えると、やはり田舎の生活をしていたし、さらに、より古い時代を想像させる雰囲気もあった。そのときに、この辺りも、時間がたてば、だんだん今の田舎らしさはなくなっていくだろうとも思った。不思議と、当時ここから歩いて10分で電車の走っている駅に行くことが出来た。えらく、未来のような話しだが、本当である。10分間も今で言うと、5分くらいに思えた。その電車で、1両か2両しか編成はなかった、街の真ん中にも行くことが出来た。なんか超未来な話しになってきた。

  その祖母もなくなって、今があるが、色々なものが変わったが、やはり変わらないものがある。私は年齢を重ねたが、他の人も同じで、また、この方はご高齢というパターンも同じ。そうゆう方と話しをすることはまずはないが、やっぱり昔祖母が醸し出していた雰囲気を今のおじいさんやおばあさんは持っている。おじいさん、おばあさんの時計は止まったままだ。そして私はどうなるのか、これはわからない。