凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも源頼朝が北条氏排除に動いていたら

2008年12月17日 | 歴史「if」
 源頼朝は建久10年、53(満51)歳で死んだ。死因は不明である。鎌倉幕府の公式記録として「吾妻鏡」があるが、頼朝が死んだとされる部分の記事が欠落している。よって理由は各種推測されているが、落馬説、糖尿説、怨霊にとり憑かれた説から暗殺説まで様々である。いずれにせよ、心残りであったことは想像に難くない。
 無論、頼朝は鎌倉幕府を開き、武士の政権を全国規模で樹立した英雄でありその生涯の仕事量は充分に満ちたものであった。ただ、後継者が十分に育たぬまま世を去らねばならなかったことについては、返す返すも残念であっただろう。

 頼朝の後継は嫡男頼家。頼朝が急死したときに18歳で既に元服も終え、年齢的に不足は無い。ただし、政権の二代目としてはいかにも若年で経験不足であったとは言える。二代目は難しいのだ。
 創業者は多くの場合、カリスマである。頼朝もその例に漏れない。そのカリスマが急に消えたとき、18歳の若武者では簡単に代替は出来ない。
 成功例はいくつもあるが、例えば足利幕府は、初代尊氏は54歳で死んでいるが、二代目義詮が継いだときには彼は28歳。しかも、幼き千寿王の時代から戦乱に身を投じ、尊氏在世中から政務を担当していた。経験豊富である。また徳川幕府では、初代家康が長命し、在世中にしっかりと筋道が形成され、二代目秀忠も既に征夷大将軍として幕閣の中心に居た。急に政務の中心に祭上げられたわけではない。
 逆に二代目で潰れてしまった例としては、天智天皇の政権がある。この時代の平均年齢を考えると決して若くはないかもしれないが、後継の大友皇子は異説もあるが24歳。既に太政大臣を経験していたとはいえ母の家柄、支持勢力ともに不足し、大海人皇子に敗れてしまった。また、織田政権は後継者としての教育を受けていた嫡男信忠も本能寺の変と同時に戦死してしまい、清洲会議で信忠の遺児三法師が擁立されたものの僅か3歳、簡単に秀吉に乗っ取られた。その秀吉政権も、秀吉自身は長命したものの秀頼はやはり幼すぎ、これも家康に乗っ取られた。
 結局、初代のカリスマが在世中に後継者として筋道が立ち、政権を既に移譲されているといった「急ではない」状況が絶対条件で、その上で二代目の資質が問われる。
 頼家は、その絶対条件すら満たしてはいなかったのではないか。なので、資質を問われるのは気の毒であるという見方も出来る。仮に頼家が非常に有能な人物であったとしても、これは難しかったのではないか。
 
 困難であった理由のひとつとして、鎌倉政権が必ずしも一枚岩ではなかったことが挙げられる。
 幕府機構はある程度完成を見ていたと言えよう。鎌倉殿を筆頭に、政所、問注所、侍所などの職制。守護・地頭。経済基盤としての関東御分国、関東御領他。しかし、それらを構成する御家人の力関係等は必ずしも整備されていなかった。
 頼朝は途中までそれをやった。突出した勢力である上総介広常らの粛清。源氏一門である義経、行家、範頼らも消された。しかし、これで御家人が全てドングリの背比べになったわけではなく、火種は残った。
 頼朝はヒエラルキーを完全整備したかったのだろうと思う。「鎌倉殿」である自分をトップに、その下を源氏一門で固める。「御門葉」といわれる人々。それらを知行国主である頼朝のそれぞれの国司に任命する。当初は範頼(三河守)や義経(伊予守)もそこに加わっていたが、安田義定らを含めそれらが危険となると排除し、平賀、大内、加賀美、足利、山名といった源氏一族の面々で固めた。
 幕府運営には官僚を登用する。大江、三善、中原氏らである。そして、幕府の実質上の担い手である御家人衆。幕府機構では侍所を唯一のポストとして与え、ここに三浦氏一族である和田義盛を据えた。これは、義盛が御家人のトップということであると思われる。
 関東における御家人の力関係においては、最初はおそらく上総広常が№1だっただろう。しかしこれは頼朝の対抗勢力にも成り得る実力があり、排除された。あとは、幕府成立に尽力した千葉氏、三浦氏、そして安達氏らが続くと考えられる。頼朝を棟梁と仰ぐ千葉常胤と三浦義澄は核とも言える存在で、土肥実平らと共に重鎮である。安達盛長は頼朝が流人時代から仕えた股肱の存在でもある。
 その御家人の勢力分布以外に、頼朝との主従関係も加味される。前述の安達盛長は、頼朝の乳母であった比企尼の女婿である。比企尼は、流人時代の頼朝をずっと支え、20年間も仕送りを続けた。この時代の乳母との関係の濃さというものは、実母を凌駕する場合があったのではないか。頼朝の母方である熱田大宮司家も無論頼朝を支援して来たが、熱の入り方では比企氏に軍配が上がる。その比企尼の女婿として盛長だけでなく、河越重頼、伊東祐清、後に平賀義信も居る。彼らは頼朝を押したてたかけがえのない存在である。平賀義信は子の大内惟義ともに御門葉であり、相当の信頼が置かれていた。そして比企氏の家督を継いだ能員。
 こうして書き出せば磐石であるようにも思える。しかし、ここに挙げなかったもう一つの勢力がある。無論それは、頼朝の岳父である時政率いる北条氏だ。

 鎌倉政権発足時の北条氏の位置づけについては、様々な説がある。
 もちろん、北条氏無くして頼朝は成功しなかった。旗揚げの初期勢力であり、共に辛酸を舐めている。頼朝の妻は北条政子であり嫡子を産んでいる。時政は岳父でありその子義時は頼朝の側近。前述した御門葉や幕府官僚、御家人衆の枠に収まらない「別格」の存在であったとする考え方が主流だと思われる。
 しかし、別格というのは逆に中途半端である。身分的に低く、また動員力も低いため御家人の上位でもない。御家人のトップは、やはり三浦氏だろう。頼朝の征夷大将軍任命の勅使の除書を受け取ったのは御家人代表の三浦義澄であり、侍所別当は和田義盛。御行始や垸飯などの儀式も、千葉常胤や三浦義澄、安達盛長らの名前が並び北条時政はその列に入ってはいない。時政は本当に別格だったのか、との疑問も浮かぶ。
 御家人を超えた存在だった、との考えを裏付けるものとして、文治元年(1185年)に頼朝の名代として朝廷に出向き、守護・地頭の設置を認めさせたという功がある。この仕事は鎌倉幕府の根幹に関わる大仕事である。名代となれる資格を有していたということは、確かに別格ではある。舅という立場は絶大なものだったのかもしれない。しかし、これ以外に時政の仕事に目立ったものは無い。
 しかし、である。朝廷への使者は身分が必要で、当時は誰も官位も持たず、一人頼朝だけがその資格を有していた。しかし頼朝は関東を動けず、名代と成り得るのが「舅」である時政以外にいなかったのが実情ではなかったか。武士など本来目通りが叶わぬ朝廷で、頼朝の舅であれば朝廷も会わざるをえない。もしも大江広元らに目通りが叶う身分があれば、頼朝は広元を派遣していたのではないだろうか。
 時政の鎌倉での位置は、ひとえにこの岳父であるということだけに寄り立っていた。逆に言えば、頼朝に疎んじられれば終わりである。
 そして、もしかしたら頼朝は実際、時政を疎んじていたのではなかっただろうか。

 1182年、嫡子頼家誕生。この後継者の養育を頼朝は比企家に託す。乳母として比企尼の娘である河越重頼の妻を登用、養育係としての乳母夫に比企能員、平賀義信を充てる。いずれも比企一族である。頼朝と比企家との繋がりの深さを思わされる。
 頼朝とすれば、信頼できる対象としては比企家>北条家だったのだろう。思えば、流人である頼朝を援助しつづけた比企一族と、旗揚げ初期勢力とはいえ当初は頼朝と政子を引き離そうとした時政。温度差があったことは想像出来る。そして同時期にあの「亀の前事件」が起こる。
 愛妾亀の前を政子が嫉妬で攻撃し、その攻撃主体となった牧宗親(時政の舅)を頼朝が罰したことで時政が伊豆へ引き上げるという痴話喧嘩のような話だが、結局頼朝は北条氏に恥をかかされたわけで、「鎌倉殿の威厳」を重んじる頼朝にとっては「やってられない」話であったろう。顔を潰されたのだから。
 頼朝は時政を確かに名代として活用はしたが、これも登用は消去法のようなものであり、本当は重用したくなかったのではないか。頼家の代となれば北条氏は外したい。義時は確かに有能ではあるが、抜きん出た存在にはしたくなかったのが本音ではなかったか。頼朝が構築しようとしていた鎌倉政権のヒエラルキーの中には、北条氏がトップに立つという構想は想定してはいなかったのではないか。

 頼朝がもしも長命すれば、時政外しは進行しただろう。何より義父であり頼朝より先に没する可能性も高い。頼朝在世中に頼家に筋道を作ることが出来たなら、もう将軍家外戚の地位は比企氏へと移行していく。義時は有能であり幕閣として生き残るのは間違いないが、それ以上の地位は望めまい。
 もっと想像を逞しくすれば、時政は頼朝にとって目の上のタンコブのような存在であったかもしれない。そういう意味においては確かに「別格」であった。
 頼朝は、鎌倉政権維持に邪魔なものは容赦なく切り捨てていく。自らの弟である範頼、義経でさえ消した人物である。あくまで可能性であるが、北条時政は上総広常と同じ道を辿った可能性も全く否定することは出来ないのではないか。
 そして頼朝は、北条時政を力付くででも排除しておいた方が良かった。守護・地頭設置の功など立てさせない方が良かった。理由は言うまでもない。しかし非情に成り切れなかった。糟糠の妻の父でもあり、自分よりも9歳上であり先に消えていく存在であるとでも思ったか。

 だが、時政に先んじて頼朝は死ぬ。原因は不明である。そして、ここから北条氏の逆襲が始まっていく。
 頼家の話を書こうと思っていてそこまで進まなかった。次回に続く。


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5 コメント

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どこのドイツ (ガーゴイル)
2020-12-08 10:52:33
源頼朝が就任したのは平清盛が就任していた役職である。
>Kennethさん (凛太郎)
2012-09-27 06:00:53
点数が辛いですか。そうかも(汗)。どうもすみません。
ここらへんの機微は、わかりにくいところがありますね。僕は空から見た感じで、動員兵力とか地盤とかそういうものからつい考えてしまいます。そのため、どうも時政の個人の能力を過小評価してしまったきらいがあるのかもしれません。結果としては、時政が仕切ってしまったわけですからね。
少なくとも乳母については、一子が比企氏。二子が阿波局ですから、三浦氏その他ではなく北条氏。これは頼朝の裁量だとは思いますが、それでも二子には食い込んでいるわけですから。
そこに火種が生じたとは思いますけれども、結果鎌倉府は関東武家連合となりました。これは、関東武士たちが旗揚げをしたときからの理想形だったのでしょう。頼朝や大江広元らの目指していたものとは、少し違った形かもしれませんけれどもね。
あたしゃ別にどっちが好きってわけでもありませんから、時政の点を低くしたのは反省すべきかも。
時政と義経 (kenneth)
2012-09-25 13:29:12
時政の最大の功績は参戦ぐらいと書かれていますが、ちょっと点数が辛い気がします。私は逆に時政の参戦こそが、彼の最大の功績であり、上総介、三浦一族が遥かに及ばない、時政の有能さを物語っていると思います。
今参戦と書きましたが、あの時点では頼朝の決起ではなく、頼朝を旗頭にした北条の決起と言える状態です。
官職の有無ではなく、時政自身が関東独立の要であり、具現者と言っても良いのではないかと思います。
ただ、幕府体制が成立していく過程で鎌倉殿に一元化してきたい頼朝と、本来屋台骨を支えた御家人の地位向上を求めた時政のポスト頼朝の争いが、頼家の乳母選びに影響したのだと思います。
実朝の乳母は政子の妹だったはずです。
結果より御家人に支持を得やすい時政の施策は流れていきます。
上記の流れで、富士の巻き狩りの事件が有ったのだと思いますし、結果的に少年将軍とはいえ、実朝施政下で幕府の御家人連合化は確実になります。
もっとも晩年の時政はこの時が別人のように、トロい人になりますが・・・・貧すれば鈍すでしょうか。
>jasminteaさん (凛太郎)
2008-12-19 23:24:05
北条氏って地盤が遠いこともありますし、やっぱり小豪族だと思うんですよね。それが実にうまくのし上がる。これは、頼朝が長命すればこうはいかなかったと思うんです。富士の巻狩りの、曽我の仇討ちで頼朝を討とうと画策した主体は時政だ、とはよく言われますが、時政はやっぱり頼朝を何とかしたかったんじゃないでしょうかねー。吾妻鏡の欠落も意味深かもしれません。
頼朝は、時政を軽んじていたと言うより「ウゼー」と思っていたのかも(笑)。義時のことは評価していたと思いますけどね。jasminteaさんのおっしゃるように粛清するほどでもないと思っていたのか、それとも政子が怖かったのか(笑)。

鎌倉時代の話って、書きかけの記事がわんさかあるんですよ(汗)。みんなうまく書けなくて放置してるんですけどね。今回は年末の棚ざらえの一環です。
待ってました♪ (jasmintea)
2008-12-18 22:56:41
自分では鎌倉時代を書けないのでこうしてこの時代に親しむことができるのは嬉しいです。

頼朝と北条の関係は興味深いです。
私は北条の力が際立っていたとは思えないんですよね。
政子の力が増したのは頼朝の死後だと思っているので。
勝手な空想ですが頼朝は時政、義時の力を軽んじていたと言うかあまり評価していなかった気がします。
北条に危機感を抱いていたなら三浦と組んで排除したのではないか?だって頼朝だから、、、なんて過大評価でしょうかね?

次回、頼家!楽しみにしていまーす♪

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