凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

くちかみ酒

2013年05月26日 | 酒についての話
 「ヤマタノオロチの呑んだ酒」「縄文はワイン?」と、有史以前にはもしかしたら日本列島ではワインが醸され、その痕跡が八岐大蛇退治であり縄文式土器であり、また酒船石ではないのか、という話を、主として柳生健吉氏著作「酒づくり談義」から引いて書いてきた。
 しかしながら、仮にワインが本当に米の酒に先んじて日本列島で醸されていたとしても、それは今は根絶してしまった。その後、日本では米から醸造された酒が主流となり、ただ「酒」と言えば米の酒を指すようになる。米の酒=日本酒、である。
 いったいいつから、日本では米の酒が主流となったのか。その過程については、考古学、文化人類学、醸造学などからそれぞれアプローチが出来るようだ。柳生健吉氏は、それが縄文から弥生時代へと移り変わる過程と一になっているのではと推測されている。
 僕の場合は、好奇心だけで詳しく研究などできないので、続けて神話を読んでゆく。

 スサノオの一幕の次に酒が出てくるのは、オオクニヌシの妻問い、そしてスセリヒメの嫉妬の場面である。この話は、日本書紀には出てこない。古事記の話。
 大国主命オオクニヌシノミコトの正妻は、須勢理毘売命スセリヒメノミコトである。ところが、オオクニヌシは越国の沼河比売ヌナカワヒメにも求婚する。現在の倫理観を当時に持ち込むことは出来ないが、まあ浮気か。そのためにスセリヒメは嫉妬した(スセリヒメだって実は略奪婚なのだが)。
 困ったオオクニヌシは出雲から大和に逃げようとすると、スセリヒメは杯を手に引き留める歌を読む。
爾其后取大御酒坏 立依指擧而歌曰
 スセリヒメが手にしている大御酒杯。中身はもちろん酒に決まっている。そしてオオクニヌシに寄り添うようにして詠むその歌というのが、実に艶めかしい。全文引用ともいかないのでちょっと意訳して書くと、
私の大国主神さん。あなたは男だから、先々どこでも若い妻を持つんでしょう。でも私は女、あなた以外に夫はいないのよ。綾織の帳がふわりと揺れる下、柔らかで白い夜具の中で、私の淡雪のように若やかな胸を、そして白い腕を、抱きしめ思うように愛撫して、私の美しい手を枕としていつまでも寝ていましょう。さあ御酒をどうぞ。
 エロい。ここまで言われてオオクニヌシはスセリヒメに負け、酒をのんで互いのうなじに手を絡めて寝ちゃうのである。後半部はやっぱり引こう。これぞ万葉仮名。
阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀迩 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
 あわ雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕(ただむき) そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き ももながに いおし寝せ とよみき 奉らせ…原文でもエロいな。この「とよみき」が酒。「豊神酒」と解釈されている。
 艶話は措いて、この酒は、果たして何の酒だったのだろうか。
 スセリヒメは、スサノオの娘である。またオオクニヌシもスサノオの系列で、ともに国つ神である。さすれば、もしかしたらワインであったかもしれない、と推察もできる。しかし、美女であるスセリヒメが、盃を片手に誘ってきたのであれば、もしかしたら違う酒かも、とも思えるのである。

 その違う酒とは、の話の前に、次に神話で酒が出てくる場面を。それは、コノハナサクヤヒメの一幕である。木の花咲くや姫。桜の化身だな。名前からして美しい。
 話は、天孫降臨である。古事記、日本書紀とも骨子は変わらない。天照大神アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトは、高天原から日向国に降臨する。そこでニニギは絶世の美女である木花開耶姫コノハナサクヤヒメと出逢い、求婚。一夜の契りでコノハナサクヤヒメは懐妊し、火照命ホデリノミコト火須勢理命ホスセリノミコト火遠理命ホオリノミコトを生む。ホデリとホオリがつまり海幸彦・山幸彦であり山幸彦の孫が神武天皇になるのだが、それはともかく、日本書紀の「一書曰」は以下のように記す。
時神吾田鹿葦津姫 以卜定田 號曰狹名田 以其田稻 釀天甜酒嘗之
 神吾田鹿葦津姫カムアタカシツヒメというのはコノハナサクヤの別名。コノハナサクヤは、卜定田(占いで定めた田)を狹名田と名づけ、その田の稲で、天甜酒あめのたむさけを醸し、奉げたとする。
 これは稲で作っているので、明確に米の酒である。果実酒ではない。
 ニニギと言えばアマテラスの孫。スサノオとは三世代の差だが、神代の三世代とは何百年か何千年か。ともかく、米の酒である。
 この天甜酒とはどういう酒だったかについては、口噛み酒ではなかったかとの説がある。

 これは、酒をかもすという言葉が「かむ」と同語源であると推察されていることにもよる。後述する大隅国風土記逸文の紹介文に「酒ヲ造ルヲバカムトモイフ。イカナル心ゾ」とも書かれている。
 これには反論もある。賀茂真淵が「冠辞考」で「かむの語はかむだち黴立かびたちに通じかむではないといふ」と論じたのをはじめとして、カモすはカビすだろう、との説も強い。
 しかしながら、酒を造るのに噛んで造る方法は、実際に存在した。
 今まで書いてきたように、穀物から酒は簡単には作れない。果実に含まれる糖分に酵素が働いてアルコールが生成されるワインと異なり、穀物はまずそのデンプン質を糖化する作業が前段として必要となる。ちなみにビールは、大麦の種子が発芽する際に生じる糖化酵素の作用を活用する。麦芽糖というのは一般的に知られているかと思う。
 そして日本酒はその糖化のために麹を活用するのだが、麹というカビの培養体がデンプンを糖化させるという発見は、なかなかできることではない。
 米をもっと簡単に糖化させる方法は、噛むことである。
 炊いたご飯を口中で長い時間噛んでいると、だんだん甘くなってくるだろう。これは、唾液に含まれるアミラーゼがデンプン質を分解し糖化させるからである。そうして噛んで甘くなった米を、容器に貯めて放置すると、自然酵母が働いて醗酵しアルコールが生成される。口噛み酒とは、そういうものである。

 この口噛み酒を醸すのは、女性の仕事だったといわれる。
 かつて真臘(カンボジア)で造られていた口噛み酒は「美人酒」と呼ばれていたとの話もある。日本では、上田誠之助氏の「日本酒の起源」より孫引きさせていただくが18世紀末から編纂された薩摩藩の農事書に、
其法十三四より十五歳までの女子端正みやびやかなるをえらびものいみせしめ、甘蔗にて歯を磨き、清水にて口を洗い、粢を嚼しめて、醞醸つくりもろみの中に投れば、一宿も経て成れり…  「成形図説」
 とある。
 他に、沖縄や奄美の口噛み酒も女性が主体であったらしい。
 こういうものは巫女さんがなさるもの、という意識は、なんとなしに我々も持っていたりして。傍証ともならないが、酒造りの長である杜氏と、古来主婦を指す刀自という言葉は共に「とじ」であり同語源説もある。また妻を「カミさん」というが、「噛みさん」ではなかったのか、とも(相当怪しい説だが)。
 そのように思えば、艶っぽいスセリヒメの誘惑の酒や、コノハナサクヤヒメの天甜酒は、なんとなしに口噛み酒ではなかったかと思えてくるのだが(根拠希薄)。
 
 口噛み酒は、世界中に分布しているものではない。東アジアと、中南米にみられるだけらしい。
 アジアでは、台湾、閩(福建省)での記録、また前述の如く13世紀のカンボジアにも出てくるとか。さらに、北方の女真、韃靼での記録もあると(石毛直道「酒造と飲酒の文化」)。
 日本では、沖縄、奄美諸島での報告がある。そして古くは「大隅国風土記」にも口噛み酒が記されているという。やはり鹿児島だ。
大隈ノ国ニハ、一家ニ水ト米トヲマウケテ、村ニツゲメグラセバ、男女一所(ひとところ)ニアツマリテ、米ヲカミテ、サカブネニハキイレテ、チリヂリニカヘリヌ、酒ノ香ノイデクルトキ、又アツマリテ、カミテハキイレシモノドモ、コレヲノム、名ヅケテクチカミノ酒ト云フ
 「大隅国風土記」はもう原典は失われている。この文は、鎌倉時代の事典「塵袋」に引用されたもの。原文どおりではないだろうが、意は伝えているのだろう。
 風土記は、だいたい8世紀前半にかかれたもの。神話の世からは時代がかなり下るが、それでもその時代まで、まだ口噛み酒が存在した地域があるということだ。
 ただこの時代(地域)では、男も女も噛んでいる。うーむ。

 日本の稲作の歴史は、かつては弥生時代に始まるとされていたが、昨今の研究では縄文時代後期から始まっていたようだ。その縄文時代の米作りは、陸稲(熱帯ジャポニカ)だとされる。畔を作り水を引き入れて苗を植える、集団でなされる水田稲作ではない。籾を畑に直接蒔くやり方である。
 これは、南方から「海上の道(柳田國男)」を経由して持ち込まれたものなのだろうか。ならば南方モンゴロイドによるもので、すなわち縄文人に対応できる。
 後期縄文人は焼畑農業によって、陸稲の他に大麦や粟、小豆なども栽培していたらしく、稲に完全依拠した生活であったとは考えにくい。だが、この陸稲の伝来と同時に、南方から口噛み酒の製法も入ってきたのではないだろうか。口噛み酒の東アジアでの分布状況から見て、そんなふうにも思う。
 スサノオ時代にはまだ米はなく(あったとしても酒に転用できるほどではなく)、酒は果実酒だった。だがオオクニヌシの時代ともなれば、徐々に米の生産も増え、そのことで米の酒が登場し、果実酒を凌駕していったことが考えられる。しかし麹による糖化醗酵までは至らず、口噛みであった、と。
 麹の酒を持ち込んだのは、水稲栽培をむねとする弥生人であっただろう。
 大和朝廷成立の頃には、もう酒といえば麹を使った酒が主流になってきたのでは、とも考えられる。そして沖縄、奄美、南九州(大隅国風土記)、また北方のアイヌ民族など、弥生文化の伝播が完全に至らない地域に、口噛み酒が縄文の痕跡として残ったのではないか。

 神話と縄文・弥生の話からまたぼんやりと考える。
 この口噛み酒は、縄文文化の醸し方ではないかと仮に考えた。そして、今までのように国つ神を縄文人、天つ神を弥生人に対応させていく。
 さすれば、美女のほまれ高いスセリヒメやコノハナサクヤヒメは、やはり自らの口をもって酒を醸したのだろう。そして、オオクニヌシやニニギにのませた。これでは男はもう…イチコロである(言葉が古いな)。
 こうなると、やはり杜氏は刀自ではなかったのかと思いたくなる。

 次回、もう少しだけ蛇足を。

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