日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

東電支援を決めた全銀協会長の“エルピーダ発言”に感じる違和感

2012-03-16 | ニュース雑感
今朝の新聞を流し読みしていて「オヤッ?」とに目止まったひとつの記事。「国のエルピーダ支援 全銀協会長『続けるべきだった』」(日経新聞9面左隅囲み記事)。銀行団は同社の突然の更生法適用に“寝首をかかれ”大量の不良債権発生となったわけで、表向きはその“恨み節”なのかなと読み流してもいいのですが、それ以上の違和感を瞬間的に感じたので昨日の会見の内容をネットで検索してみました。

するとやっぱり、ありました、ありました。「銀行団東電への追加支援決定」というお話が、同じ会見で永易全銀協会長の口から出されていました。エルピーダは御承知の通り、09年同社が国産半導体危機を迎えた折に、“日の丸半導体を守れ”と国が一民間企業に再建支援の手を差し伸べた異例の案件であり、銀行団も国の支援を背景に同社に対する金融支援を続けて来たのです。この流れを見るに、09年時点のエルピーダを囲む状況は現状の東電非常にを囲むそれに非常に近いものを感じます。

そうです、恐らく永易会長の「東電支援決定」の発言とエルピーダに関する「国は支援を続けるべきだった」は“セット販売”だったのではないかと。国が東電への出資をする大前提は、金融団の支援策を背景とした同社再建計画の提出にあるわけで、銀行団はここで東電をつぶされて大量の不良債権をかぶることになったらたまったもんじゃないと、背に腹は代えられぬ的な判断で東電支援を決めたのでしょう。一般に言われている追加支援は、1兆円規模の追加融資です。

しかし銀行団は、この先エルピーダのケースと同じように、国が支援を投げ出していつ同じように「破たん」の憂き目をみるか分からないのではないかという心配が頭から離れないわけです。そうなれば東電の借入規模はエルピーダの比ではありませんから。今回追加の1兆円はドブ入り、今の融資残高プラス1兆円もの不良債権がこの先1~2年後に発生するなんてことになったらとんでもないと。エルピーダの質問が出されたついでにこれ幸いと、しかしながら過去の自己の立場も考えた“やんわり政府批判”を口にしたのではないかと言う感じでがして、なんとも嫌な印象を受けたわけです。

私は元金融機関の人間ではありますが、今回の銀行の姿勢は何か違うのではないかと思っています。エルピーダと東電は、同じ民間企業であっても全く性格を異にする存在であると思います。それはすなわち「公共性」と言う観点です。半導体価格がどうなろうがそれは一国民の生活レベルに即直結する問題ではありません。しかし東電は電気の恩恵を受けない国民生活はあり得ないという我が国の現状の中で、東電の無理な延命的再建計画進行に加担することは、電気料金の値上げや原発の再稼働など、国民生活に大きな影響を与えかねないことに力を貸すことでもあるのです。しかも、トップの言動にみる厚顔無恥の東電文化を容認してきた、「貸し手責任」も存在するハズです。

金融機関も同じ公共的色合いを強く帯びた民間企業であり、今最優先で考えるべきは、自行の融資が不良債権化することを避ける方策ではなく、社会正義の立場で考えて東電の再建計画を支援することが正しいのか否かではないのでしょうか。もちろんこれは個別行レベルで結論を出せる問題ではないのかもしれません。ならばこそ、全銀協と言う業界団体が存在するわけで、業界として東電支援を社会正義の立場から議論し結論を明確に示すことこそが求められているのではないかと思うのです。

「東電の再建は支援します」でも「エルピーダの二の舞は勘弁してね」。そんな自己の利益だけを考えたコメントを公共的色合いの濃い民間企業団体の長が、公の場で公言するのは昔同じ団体に所属していた人間から見ても、なんとも恥ずかしい限りであります。せめて、東電の再建支援の理由が、どう社会正義の観点で判断した上での結論であるのか、その部分だけでもしっかりと話すべきなのではないでしょうか。それも言えない、すなわち社会正義の視点での判断もなしに東電支援を決めたのであるなら、銀行界は過去に受けた自己の公的支援の問題に対しても明確な理解ができていないということにもなり、これは業界として猛省を促されるべき問題であると思います。

「ごめんなさい」が言えない“エライ人”、3つの理由

2012-03-14 | 経営
昨日のエントリー「東電西沢社長が見せた究極の“やってはいけない”」が、BLOGOSでお読みいただいた皆さんから大変多くの「支持する」を頂戴しました。最近、これに次いで「支持する」をたくさん頂戴したのは、2月24日のエントリー「渡邉美樹さん、「ごめんなさい」から始めましょうよ」でした。この双方に共通するのが、迷惑をかけた相手に対して、面と向かい合って「ごめんなさい」が言えない企業、経営者の姿勢を、企業のあるべきを考える立場から「問題あり」としたエントリーであったということです。

なぜ、このふたつのエントリーが比較的多くの方から「支持する」とクリックしていただけたのか。それは、このふたつのエントリーを読まれた方の身の回りにも同じような方がいたり、過去に似た経験をしたりして、「なんでこの人、素直に謝らないんだよ!」と胸につっかえたままの不快感が、この二つの事件で思い起こされ、事件の主人公が批判的に取り上げられたエントリーを読むことで「そうだろ!そうだろ!」と胸のつっかえが少しはとれたというものなのではないのかな、などと勝手に思ったりしています。

要するに、この手の「ごめんなさい」が言えない“エライ人”や“エライ会社”や“エライ政治家”“エライ役人”っていうのが、実に世に多いということに他ならないのではないでしょうか。当然、私も“エライ会社”や“エライ役人”や“エライ経営者”、“エライ管理者”をたくさん見て来ました。その結論として“エライ”人たちが「ごめんなさい」を言えない理由は、3つあると思っていますので、ちょっとそれを書いてみます。

まずひとつ目。「エライ人やエライ会社は、あやまる必要がない」あるいは「あやまってしまったら、権威が失墜する」と勘違いしている。
これは一番多いケースかもしれません。どうやら「あやまる」という行為は、目下の者が目上の者に対してする行為である、と思っているようです。エラくなってしまうと、プライドが作り上げる虚構の思い上がりからとんでもない思い違いをしてしまうようです。「あやまる」と言う行為は、他者に対して迷惑をかけたという事実があるのであれば、上下なく人として最低のモラルを持ち合わせていることを表す行為として、当然求められるものなのです。個々の職位の上下はもとより勝手な職業の貴賤判断などにより、「必要ない」などと考えるのは論外です。

二つ目。「あやまる」ことはイコール自己の「非」を認めることであり「敗北」を意味する、などと常に“勝ち負けの論理”でものを考え、相手との人間関係を重視しない。
“エラく”なった人や会社は、勝ち上った結果として今の地位があると無意識の意識があるわけで、自ずと「勝ち負け」にこだわり「負け」を極端に嫌う傾向があります。「敗北者」としての弱者切り捨てや「負け犬」のレッテル化によるパワハラなどは、すべて“勝ち負けの論理”で自己の勝者化を確認する作業でもあるのです。ホント嫌らしいですね。会社で一番ありがちなのは、顧問弁護士などの「あやまってはいけません、あやまれば裁判で“負け”ますよ」というアドバイスで、“勝ち組意識”に火がついて決してあやまらないというケース。自己の「勝ち」にこだわるがために、人として大切なものを捨ててしまう、何とも悲しい話です。

三っつ目。「あやまる」と言う行為を単純に恥ずかしいことだと思っている。
これはひとつ目の解釈とも関係がありますが、目下の者がするべき行為を“エライ”人がするのは恥ずかしいと思っているということです。よく言えば「照れ屋」、「ごめんなさいは?」と言われた子供なら言えなくてモジモジして「照れてるの?ボクかわいいねぇ~」で済むかもしれませんが、“エライ”立場の人や会社は自己の“開物(本質の見える化)”ができていないという点でコミュニケーション能力に「?」が3つぐらい付きます。一事が万事、素直に非を認めてお詫びのコミュニケーションが取れないような人や会社は、決して信用されないということを心に刻むべきです。

東電のケースも渡邉さんのケースも、3番目のようなかわいいものではなさそうですから、1番目の思い上がりと2番目の捨てきれない「勝ち組」意識の複合がそうさせているのではないでしょうか。鼻につく思い上がりや、場違いな「勝ち組」意識が一般の人から見るととても不愉快な気分にさせられるのだということも、“エライ”人や会社は十分に理解した上で自身の言動には気をつけないといけないと思います。ただ初めからそれが理解できるなら、叩かれることにはならないってことでしょうけど…。

東電西沢社長が見せた究極の“やってはいけない”

2012-03-12 | 経営
あなたの会社で、一般人の方をあやめてしまうような、言ってみれば取り返しのつかない不祥事が起きたとします。その一年後の当日に、亡くなられたかたがいれば命日にあたる日に、会社の経営者は被害者を訪問して花を手向ける等お詫びの意を直接表明するものではないでしょうか。個人で言うなら、交通事故を起こしてしまい人をあやめてしまったら、やはり命日には被害者宅を訪問して許されないものであってもお詫びの気持ちを直接伝えるのが常識的な対応ではないでしょうか。例えば、先方に快くは迎え入れられないとしても、「会いたくない」と追い返されることになったとしても、です。人として、取り返しのつかないことを起こしてしまった責任とは、そういう形で償いを続けていくものではないのかと。

昨日、1年前の大変な出来事を思い出しつつ国民が沈痛な面持ちに浸った3月11日、東京電力の西沢社長は「福島の地で決意を語りたかった」としながらも、被災者の方々の下には訪れることなく、自社の原発施設内で社員向けに訓示をたれたと聞きます。訓示の中で当然、被災者の方々へのお詫びは申し述べたものの、それ以上のアクションは何もなし。お詫びの言葉は、被災者に直接伝えられることなくメディア経由で彼らの元へ、もしかするとホームページ掲載のあいさつ文程度のものを手紙の形で被災者宛送達しているのかもしれませんが…。血の通ったものではないでしょう。

このやり方、先の取り返しのつかない不祥事を起こした会社や交通事故を起こし人をあやめた個人の例で言うなら、命日に被害者宅を訪問せずにお詫びは手紙で済ます、代わりに自社社員や家族に「お前ら、こんなことがあると大変なことになるのだから、事故を二度と起こさないよう十分気をつけろよ」とこちらは直接話して聞かせる、ということになります。被災者や被害者は、仮に顔も見たくない相手であったとしても、自分の下へは来ないでこんな対応をしていたことが分かったら普通怒りますよね。身近な事例に置き換えて考えれば誰にでも分かるようなことなのに、どうしてそういう“やってはいけない”が分からないのでしょうか。東電は本当に病んでいる組織であるとつくづく思います。

ジャニーズだってAKBだって、昨日は被災地のために動き、被災地を日本を元気づけるメッセージを発信してくれたのですよ。なのに東電のトップは自社の社員向けにしか顔を見せることなく、被災者に対して間接的なお詫びしか言わなかったのです。当事者の、最高責任者が、です。結局偉くなりすぎたんでしょう、企業として。「俺たちが日本のエネルギーを支えている」「俺たちがいなければ日本の経済発展なんてありえない」「誰のおかげで近代的な暮らしが送れていると思っているんだ」、無意識のうちにそんな意識が組織の根底に根付いていて、その偉くなってしまったプライドがこんな大切な場面でトップの不遜な態度として形になって表れてしまう。誰もトップの行動を止めようとしない。あの日航でさえ、毎年御巣鷹山に登って未だに謝意を直接遺族に伝えているじゃないですか。東電は完全に、官僚的組織管理の弊害による崩壊現象の末期的症状です。

損害賠償手続きのあまりに役所的な対応に始まり、自社の責任を省みず国民に結果として事故負担を強いる電気料金値上げを当然と開き直り「値上げは権利」と言い放つ。そのたびごとに「おや?」とは思いましたが、被災者に対して1年後の被災日当日に直接お詫びを申し述べることなく、組織内の訓示でそれを済ますとは、もう完全アウトです。企業の“やってはいけない”ここに極まれり。普通なら「中小企業経営者の皆さんも、“他山の石”として学ばせてもらいましょう」とでも言うところですが、ここまで非常識であると学ぶものすら存在しません。

こんな組織に公的資金などつぎ込む必要なしです。国の責任において国民生活に影響を与えない手立てを講じつつ、会社はゼロクリアすべきでしょう。こんな会社に公的資金を入れても、恐らく「俺たちがいなけりゃ日本は生きていけないんだから、入れて当たり前だ」ぐらいにしか思わないのでしょう。そんな会社を無理に再生させても、国民経済になんのプラスもありません。株主責任も貸し手責任もしっかり問い、会社は整理しつつ分割で売り払うなどしてその資金で損害賠償をするなり、方法はいろいろあると思います。国はエネルギー政策の責任者としてこの尻拭いをしっかりすべきです。さすがに昨日の態度には、分かっていないにもほどがあると見ていてブチ切れました。

「新iPad」に“素人”が感じるガッカリ感

2012-03-09 | ビジネス
アップル社のタブレット端末iPadの最新版「New iPad(新iPad)」が発表されました。BLOGOSのエントリーでも昨日来絶賛の声が聞こえているのですが、“素人”にはどうも理解しにくいです。まず、「New iPad」の改良内容を復習します。

①新型「iPad」は、端末の外観こそ大きな変化はないものの、iPhone 4/4Sでも採用されているRetinaディスプレイがiPadにも採用された。9.7インチのディスプレイは、解像度が一気に向上し、2048×1536ピクセル(解像度264ppi)となる。彩度も44%向上する。
②また、この高解像度のディスプレイを処理するプロセッサも変更され、新たにクアッドコアの「A5X」が搭載される。発表会では、「A5X」のグラフィック性能について、NVIDIA製の「Tegra 3」の3倍、iPad 2の「A5」よりも2倍の処理性能と表現していた。
③カメラ機能はオートフォーカス付き、オートホワイトバランス機能付きの500万画素裏面照射型となる。1920×1080ドットの1080P動画撮影にも対応し、手ぶれ補正機能も用意される。
④端末のOSは、iOS 5.1となる。同バージョンは、音声コンシェルジュ機能となる「Siri」に対応し、日本語もサポートされるが、「Siri」はiPhone向けの機能となる。新型「iPad」では、日本語の音声入力機能が用意され、メールなどの入力時に音声で本文入力が行える。これに伴い、ソフトウェアキーボードには、音声入力用のマイクキーが用意される。
⑤通信関連では、3.9Gに位置づけられるLTE方式のサポートも明らかにされた。
(「ケータイWatch」=http://k-tai.impress.co.jp/docs/news/20120308_517345.html より抜粋。①~⑤の表記は筆者が加筆)

私はハッキリ申し上げてアップルはじめIT機器の専門家ではありません。でも一応普通レベルの使い手ではあります。ちなみにiPadも持っていますし、買って寝かせているわけではなくビジネス、プライベート両面において外出先や家で使っています。使い方は主に一時期持ち歩いていたネットブックの代用的存在です。

ノートPCレベルの使い勝手にまで至らないのは、ビジネスマンの基本アプリであるワード、エクセル、パワーポイントが互換ソフトは入れているものの、本ソフトが載っていないという点がネック。資料を持ち歩いたりクラウドに保管して出先で呼び出したりはしても、本機で資料を作り込むまではいかないというのが最大の理由です。同じような使い方、同じような理由でノートPCの完全代用品にはなっていない人は意外に多いと思います。

さてそんな“素人”の使い手からみた今回のNew iPadがどうかと言うと…。順に改良点に触れますと、上記記事の①②はディスプレイの画質向上の問題ですよね。画質の向上は、ブックリーダーとして使う際にメリットが大きいのかもしれませんが、その前にいかにせん重量が重い。

iPadは登場以来2年間における競合タブレット機器との比較で言うなら、ブックリーダーとしての使い勝手はサイズ、重さ等使い勝手の面で今イチと思います。また解像度向上はプレゼンではプラス要因と言えますが、ぜひ欲しい決め手機能とまでは思えません。「新iPad」は確かに実物を見れば感激レベルの解像度なのでしょうが、それ以上の実用的意味合いは感じさせない気がします。

次に③はカメラの向上。そもそも私のような“素人”はiPadのサイズのタブレットにカメラ機能ってそれほど有効性を感じないのです。ほとんどのiPad利用者はiPhoneを持ち歩くでしょうから、そちらの機能アップで十分かなと。というわけでこの部分も“素人”の使い手にはさほど魅力なしと感じました。

さらに④、これはすでにiPhone4Sに搭載されている機能。今回日本語バージョンも利用可だそうですが、確かに面白い機能であるとは思いますが実用面で欲しいかと聞かれれば「それほどでも」のレベルかなと。⑤は通信速度の問題ですか。これもドコモの「Xi」と同じく現状“素人”が普通にビジネスユース+ホームユースで使う分には、さほど魅力を感じません。

と言うわけで、実際に「新iPad」に触れてみれば従来品との違いはもちろん感激なんでしょうが、じゃあ「買い増す?」「買い換えます?」言われれば答えは「NO」なのです。理由は“素人”は従来品で満足だから、と言うよりも積極的に買いたい気持ちにさせる何かが足りないからです。もっと言えば、ジョブズの時代にはあった「夢」を感じさせる何かが足りないんじゃないのかなとも思います。過去のiPodもiPhoneも、登場以来新機種が出されるたびに本当に「夢」に溢れていたじゃないですか。

今やアンドロイド系の新作発表と変わり映えしないというのか、見ようによってはスペック競争に巻き込まれている(というより自ら焚きつけている?)、その部分が何よりアップルらしくないという感じがします。第一、従来よりも機器の厚みが増したり重くなったり、こだわりの完ぺき主義者であるジョブズなら決して許さなかったのではないかと思うのです。

思い起こせばiPhone4S発表の時も同様の印象であったかなと…。「5」を名乗らなかったiPhone、「3」を名乗らなかったiPad、“ジョブズ後”のアップルは「夢」の出し惜しみをしているだけなのか、それとも「5」や「3」を名乗る「夢」あふれるアイデアがジョブズの死と共に尽きてしまったのか。その答えは残念ながら来年以降に持ち越しのようです。

“素人”が見た目には、巧妙に時間稼ぎをしてその間に何か別の目くらましでも考えているんじゃないのかと、どこまでもアーティスティクだったジョブズ氏に比べて至ってビジネスライクなティム・クック氏を見るにどうもアップルの先行きにいいイメージが持てないのですが。“専門家”からご覧になるとそんなことはないのでしょうか。

犯罪までも生む警官の「違反検挙ノルマ主義」は、即刻廃止せよ!

2012-03-07 | ニュース雑感
大阪府警の警察官が飲酒運転の取り締まりの際、アルコール検査の数値を水増しして男性を検挙していたとして虚偽有印公文書作成などの疑いで逮捕されました。「彼は一体何のためにやったの?」と疑問に思っていると、MSN産経ニュースに次のような記載があり、なるほど納得でした。以下引用。

交通取り締まりの現場では、飲酒運転などの摘発件数が仕事上の評価にも影響する傾向があるといい、今回の疑惑について、警察関係者は「本来なら摘発されないはずの人が違反切符を切られた可能性もあり、警察の取り締まり全体の信頼性が問われる」と指摘。「警察組織はノルマ主義だから、実績を上げようとするあまりアルコールの数値をでっち上げていたのではないか」と述べた。
こうした「ノルマ主義」が背景にあるとみられる不祥事も続発している。16年には、兵庫県警で窃盗事件の報告書類に架空の被害者名を記入したなどとされる組織的な捏造事件が発覚。虚偽有印公文書作成などの容疑で13人が書類送検され、関与した警察官は「実績を上げたかった」と供述。裁判では「厳しいノルマに追い立てられていた」と指摘された。
今年1月にも、神奈川県警の巡査が架空の窃盗事件を解決したとでっち上げたなどとして、虚偽有印公文書作成などの容疑で逮捕される事件があった。
(2012.3.6 15:08 MSN産経ニュース)

これってどうなんでしょうね。言ってみれば、ノルマ主義の浸透により「法律違反行為や犯罪の撲滅」という本来の「目的」が忘れられ、いつの間にか「違反および犯罪検挙件数の増加」という「目的」を履き違えた行動がまかり通ってしまっている、そんな状況にあると思わされます。

「実」ではなく「形式」を重んじる官僚主義の弊害ここに極まれり、の感が強く漂っているとは言えませんでしょうか。国民の生活を守る立場にある警察組織の、このような誤認誘導を助長する形式主義への傾倒は即刻改めるべきであろうと思うのです。

その改めるべき代表例が、白バイやパトカーによるネズミ捕り方式の取り締まりでしょう。我が家の近くの道路でもかなり頻繁に、路地に隠れた白バイが、信号のない横断歩道を渡ろうとする歩行者を無視して通り過ぎる車を、次から次へと捕まえては切符を切るという行為が行われています。

以前から思っていることではありますが、これは最高に変です。事後防止を旨とする交通課の警官がすべきことは、一人でも多くのドライバーに違反をさせないことで安全な交通環境を守ることにあるはずです。それなのに、彼らがしていることは、違反行為が多発する場所で陰に隠れて違反行為をあえてさせそれを検挙する、これはどう考えてもおかしい。もし、隠れて見ている目の前で事故が起きたら大問題です。

本来であるなら白バイに乗った交通課の警官のすべきは、違反多発地点に堂々と姿を見せて「なんで私がいる分かりますか?ここはちゃんと歩行者優先で止まらないといけないんですよ」とアナウンスし、違反行為をひとつでも多く未然に防ぎ減らすことにあるのではないでしょうか。それをわざわざ、隠れて違反をさせて捕まえるなどというのは、本末転倒もいいところです。

こんなことがノルマ主義のもと平然と行われているから、今回の逮捕事件のような目的を大きく履き違えた行為が行われてもおかしくない環境が出来上がってしまうのではないでしょうか。ノルマは違反件数の減少にこそ課されるべきであり、違反検挙件数ノルマが警官の職務評価を左右するなどというのは、まったくナンセンスであると言っていいでしょう。

警察官僚の上層部には優秀な方々がたくさんいるのですから、今回の事件を機に、多くの警察署やそこに所属する警官に「目的」を履き違えさせている現状のノルマ主義を見直しし、本来の「目的」である違反件数減少に向けたあるべき警察関係者の行動指針を明確に規定しなおすべきであると考えます。

各メディアもぜひこの機会にこの問題を大きく取り上げて、国民生活を守るべき警察の日常行動の在り様を正しい方向へ導いて欲しいと思います。ちなみに、私的にはネズミ捕りに捕まったことはなく、なんら個人的な恨みつらみで申し上げているわけではありませんので、その点に誤解なきようお願いいたします。

話題の霊感師ネタから無理無理学んでみた

2012-03-06 | その他あれこれ
件の女芸人の話、相変わらずテレビは大騒ぎで週末の週刊フラッシュバック的番組もこの話題で持ち切りのようでした。以前も書いたように取るに足らない芸能ネタですが、相変わらずの電波の垂れ流し状態なので、これだけ続くということはせめてブログネタとして屁の役ぐらいに立つものはあるんじゃないかと、週末のテレビを眺めながら無理無理考えてみました。

本件よくよく聞けば、よくある有名人“寄生虫”のタカリ話のようで。この手の“寄生虫”にまとわりつかれやすいのは、浮き沈みの激しいいわゆる“水商売”の方々、特に芸能人なんていうのはその最たる存在なわけです。特に、急激に頂点を極めた人ほど不安ストレスが大きく“寄生”されやすいという特長もありそうで、ある程度ブレイクして売れた後に近寄ってきた“専門家”としての言葉に“転落”の恐怖を煽られて重用し、結果骨の髄までしゃぶりつくされてしまう、というのが昔からよく聞くこの手の話の常套な流れなのです。

実はこの手の似た話は芸能界ばかりではなくて、実業界にもゴロゴロしています。ターゲットになりやすいのは企業経営者、それも一般的に自身で事業を立ち上げあるいは大きくした“成功者”と言われるオーナー系の経営者の方々です。考えてみれば、確固たる基盤を持つ大企業以外の企業経営者は「今日は天国、明日は地獄」を地で行く知られざる過酷な“水商売”環境にあるわけで、芸能人と同じく成功をすればしただけ転落への不安も大きいのです。そんなところにスキを見つけては食いつく“寄生虫”はたくさん存在するのです。

例えば、順調に行っていた会社がキャッシュフロー経営を省みなかったがために突如資金繰りに行き詰まる「黒字倒産」の危機、そこを助ける経理・会計の専門家。降って湧いた訴訟問題に突如わき起こる予期せぬビジネスモデル崩壊の危機、そこを助ける法律の専門家等々。もちろん皆が皆悪い人たちばかりではありませんが、中には一難去って状況が安定したなら専門知識を駆使して再度不安をあおり商売ネタを広げていく、資格の看板をぶら下げて恐怖を煽り頼らせるように仕向けながらうまみがなくなるまで甘い汁を吸い尽くしては企業を渡り歩く、そんな“寄生虫”を数多く見てきました。

女芸人と霊感師のケースも、企業経営者と専門家のケースも、落ち着いて考えれば一対一の人間関係のバランスが一方的な依存に移行することが生み出した不幸であるわけです。件の霊感師や私が目にした悪い企業専門家のような明らかな悪意に基づかなくとも、ウイン=ウインの関係が時間経過とともに緊張感を失い一方的なウイン=ルーズの形に変形してしまうことも間々あるわけで、お互いに注意が必要ということになるのでしょう。

というわけで、特に士業の皆さんはじめ我々企業のお手伝いをする立場にある人間は、今回のネタを自戒の念を持って受け止め自己の仕事を省みる機会としなくてはいけないということかなと。さらによくよく考えれば友達関係も夫婦も同じ、人間関係は一方的に依存しすぎない適度な緊張感を保つことが、お互いを不幸にしない秘訣であると教えられるかなと。話題の下世話な芸能ネタから無理無理学べるのはこの程度のようで。お粗末さまでした。

管直人前首相が教える(?)「リーダーの作法」

2012-03-01 | 経営
福島第1原発事故を独自に調査している民間の事故調査委員会が報告書をまとめ公表されたそうですが、その中で事故発生当時の管直人首相はじめ政府の対応などがいろいろと物議をかもしているようです。新聞によってこの報告書の内容に関しての焦点の当て所が異なっているようですが、私の立場では報道されている報告書にある管首相の言動の部分を中心に拾い集めて、有事におけるリーダの作法として学ぶべき点を指摘しておくことにします。

<事象1>
事故後の昨年3月12日午前6時すぎヘリコプターでの原発視察で、首相は同乗した班目春樹原子力安全委員長に「俺の質問にだけ答えろ」と命じて他の説明を拒否した。班目委員長は「私としてはもっと色々伝えたかった」「菅首相の前で大きな声で元気よく言える人は、相当の心臓の持ち主」と述べた。

この部分において気になるのは、「上から目線に基づくリーダーの恫喝行動」です。班目委員長も言っているように、リーダーが恫喝的に「俺の質問に答えていればいい」というのは情報を細らせるのみであり、善後策を検討する上で有効な情報をスタッフが持っていたとしても、それを眠らせてしまうことになるのです。トラブル発生時には、その当事者が一番濃い情報を持っているのであり、リーダーが自己の思い込みポイントに基づいて質問攻めにしても、それで必ずしも対処に向けた有効な情報が入手できるとは限りません。まずは、自分が欲しい情報だけではなく当事者が持っている情報を洗いざらい聞き出すことが、問題の解決に向けては必要なことであると言えます。またリーダーが恫喝をすれば、仕える者は言いたいことが言えなくなるのは当たり前。有事にトップダウンで物事をすすめるやり方は間違ってはいませんが、有事にリーダーが感情的になるのは愚であり恫喝するなどは言語道断です。

<事象2>
福島第一原発に代替バッテリーが必要と判明した際、菅首相は自分の携帯電話で「必要なバッテリーの大きさは? 縦横何メートル? 重さは? ヘリコプターで運べるのか?」などと担当者に直接質問して熱心にメモをとった。同席者の一人は「首相がそんな細かいことを聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした」と述べた。

これはもう、最後の同席者のおっしゃる通り。リーダがその立場においてやるべきことと、人に任せるべきことの区別がつかない状況は、ことの運営に大きな支障をきたすことになります。森を見るべき人が木ばかりを見て何の意味があるのか、です。これは平時においても言えることで、「心配であいつらには任せられん」「俺がやった方が絶対にうまくいく」等の考えからつまらない事務仕事まで自分でやらないと気が済まないという例は、中小企業経営者は非常に多く見られます。要は、人を信じない、部下を育てようとしないリーダーであり、これでは権限移譲は進まず組織は成長できません。経営者やリーダーは、自分のやっている仕事やろうとしている仕事が本当に自分がやるべきことなのか、部下にやらせることはできないのか、必ず自問自答するべきなのです。リーダーが部下よりもうまくできることは当たり前で、そこを目をつぶってポイント指導しながらやらせることで人は育ち、組織は成長できるのです。リーダーにはリーダーのやるべきことがたくさんあるはずです。有事にはなおさら、リーダーがその役割を見誤ることは命取りになるでしょう。

<事象3>
事故発生直後、東電の清水正孝社長から現場の作業員600人を福島第一原発から第二原発に撤退させたいと政府に再三申し入れがあったことが明らかにされた。これに対し、菅首相が3月15日未明に東電本店に乗り込み、「命を賭けろ。撤退はあり得ない。そんなことをすれば東電は間違いなくつぶれる」と演説した。

この部分は本委員会報告においても唯一管首相の功績として、「作業員が残留し注水などを継続したことで事故は収拾に向かった。それが首相の最大の功績だったかもしれない」と評価をされている部分です。危機に直面した際にリスク・テイクする場合の目先のリスクの大きさと、リスク・テイクしない場合の将来を含め想定されるリスクの大きさを冷静に判断し、後者の懸念が勝ると判断できるのであれば、例え部下が尻込みをしようとも自身が先頭に立つ等して、当初の方針を貫く行動が必要ということです。何でもかんでも当初方針ありきで目先のリスク・テイク行動がいいわけではなく、ポイントはリスクの比較検討が冷静にできるか否かなのです。少なくともリーダー自身の保身や見栄やプライド優先で方針の進退を決めることは、一番やってはいけないことです。管首相がどのような判断で、東電の撤退を断固許さなかったのかは不明ですが、結果は正解であったわけです。

<おまけ>
民間の事故調査委員会がまとめた報告書について、菅前首相は28日夜厳しい指摘を受けた点には触れず、「わたしが東電撤退を拒否したことを公平に評価していただき、大変ありがたい」とのコメントを出した。

批判と評価の両面が向けられていることを察知したのであれば、リーダーたるものその双方に対して、自身の考えをスタッフに対して明確に表明すべきであります。特に批判が明らかにその声がリーダーに届いている状況でありながら、自己の考えを表明することなくそれを黙殺することは徒(いたずら)にリーダーの求心力を落とすことに他ならないと理解すべきであるでしょう。もっとも上記の事例については、管直人氏はすでに国民のリーダーではないという理解の下、これでいいかと済ませてもいいのかとは思いますが、過去にリーダーであったという観点で言うなら一言ぐらい自身への批判に対するコメントは欲しいところではあります。