日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

まだダメ

2009-01-20 | その他あれこれ
仕事は極力普段通りしておりますが…
いつものように力(リキ)入れてブログを書き込む元気がありません。
昨日、無理して朝から晩まで出張っちゃったのがいけなかったかな。
夕方以降ほとんど声が出ていませんでしたから…。
歌いすぎのせいばかりでもないみたいな気もしてきましたね。やはり風邪か?
けっこうまいってます。

経営のトリセツ50 ~ 成功に導く「目的」「目標」「課題」の共有

2009-01-16 | 経営
プロジェクトや会議の運営を成功に導く「戦略シナリオ」についてです。

社内で新たなプロジェクトや会議を発足させる場合、社長が発案して任せきりになるケースがよく見受けられます。社長の「○○を検討しろ!」「××を考えるチームを発足させろ!」といったケースです。こんな場合、決まってチームや会議が途中でとん挫したり、袋小路に入ったり、その頃には社長の熱も冷めてうやむやに…。

まず、新設のチームや会議にはまず「目的」「目標」「課題」の共有が不可欠です。「目的」「目標」「課題」のことを、私は「プロジェクトの3要素」と呼んでいます。共有の仕方ですが、「目的」はとりあえず指示者である社長が提示する必要があるでしょうが(もちろん与えられた「目標」をメンバー間で議論して修正を加えることは可です)、「目標」「課題」はチームや会議のメンバーが話し合って決めるのがベストでしょう。

では、「目的」「目標」「課題」って何でしょう?
「目的」の明確化とは、「何のためのチーム、会議であるか」をハッキリさせることです。例えば「社内の無駄を削減するためのチーム」「顧客満足度を高めるためのチーム」「原価計算を正確にするためのチーム」等々、チームとして与えるミッションが必ずあるはずで、これをしっかりと伝えメンバー全員に認識をさせることが必要です。言いかえれば、「何をしたいか」「どういう状態にしたいか」を「目的」として、具体的に指し示すことです。「目的」のないところにマネジメントは存在しません。

「目的」の共有ができたら次は「目標」です。「目標」の「標」は“しるし”と言う意味です。すなわち、何をもって当面「目的」を達することができたとするかの具体的な“目印”のことです。この“目印”は抽象的ではいけません。「目標」の見える化です。具体的な数字を“目印”にすることが大切なのです。「目標」にも必要な3構成要素があります。「何の指標を」「いつまでに」「どこまで達成するか」です。例えば、「経費率を」「今年度末までに」「5%下げる」といった感じです。この3要素のどれかひとつでも、あやふやであるとプロジェクトや会議はいい加減なものになってしまします。

同時に「目標」の設定の仕方次第で、チームの取り組み姿勢が大きく変わってくるわけで、「目標」の設定は大変重要です。社長の意向で強く理想を追いかけすぎて「目標」が実現の実感がもてなければ、チームの活力が失われるでしょうし、逆にチームに任せすぎて容易に達成できる「目標」になりすぎてもチームを組む意味がなくなります。その意味では「目的」を提示した指導者の責任として、社長が適正な「目標」であるか否かのか判断を下すことは忘れてはいけない重要なポイントであるのです。

「課題」は「目標」を達成するために解決すべき問題に対する“策”のことです。ここで間違えていけないのは、「課題」=「問題点」ではなく「問題」を解決するための「策」であるということです。ですから、組織内にある「問題」を列挙するのではなくあくまで「目標」を達成するための「問題」を抽出して、その「策」を講じることが肝要です。重要なことは、解決すべき「問題」はネガティブでもその対策である「課題」はポジティブなものであるという点を誤らず共有させることです。

明確な「目的」の下、それを実現するための「目標」を数値で表すことで努力の度合いに関する認識を共有させ、さらにそれを実現するための「課題」を明らかにしていく。このようにしてつくられるものが、まさに「戦略シナリオ」に他ならないのです。迷路に入ったプロジェクト、形式に流されている会議等は、たいていこの「戦略シナリオ」を見失っているのです。既存のチームや会議において、「混迷」「停滞」「マンネリ」等を感じたら、まずは「目的」「目標」「課題」の再確認をおすすめします。

大不況下の底支えに“オタク市場”向け商品開発?

2009-01-14 | マーケティング
JR東日本の「正月パス」って知ってます?仕事でお世話になっている知り合いのコテコテ“鉄ちゃん”からおもしろいお話を聞きましたので、「オタク」マーケットの話を少々。

「正月パス」とは、JR東日本が1995年より発売を開始した元日限定のフリーきっぷだそうで、JR東日本全線の新幹線・特急・急行・快速・普通列車の普通車自由席が1万2千円で元旦限定で乗り放題。しかも4回まで座席指定可というサービスぶり。JRから“鉄ちゃん”への感謝のしるしでしょうか。件の“鉄”氏曰く「ノリ鉄(電車に乗ることを主な楽しみとする鉄道オタクのことだそうです)には最高のお年玉です」。

2004年発売(2005年1月1日有効)の「正月パス」からは、フリーエリアがJR東日本全線に加えJR北海道中小国~函館間が加わったそうで、このおかげで毎年元旦には筋金入りの“鉄ちゃん”たちが、大挙函館に終結するそうです。団体行動は似合わないオタクの皆さんですから申し合わせではないようですが、どうやら函館まで行けるって言うのがミソみたいですね。2004年までは、行き先が人それぞれ思い思いであったものが、「函館OK」になったことで「どうせ行くなら海を越えて北海道でしょう」と皆同じく考えるとこになったようで、元旦は函館に“鉄ちゃん”集合と相成ったようです。

先の“鉄”氏によれば、函館終結組はだいたいが中高年“鉄”だそうで、一般的に“ノリ鉄”はこの年代がメインなんだとか。なるほど、子供時代は乗りたくとも限られた小遣いですから、“ノリ”はあきらめて写真撮ったり模型をながめたりがメインにならざるを得ませんからね。それが、40~50代になると余裕資金もそこそこできて、昔乗りたかった電車に次々乗る訳ですね。とは言っても函館まで電車で往復すれば軽く5万円以上はいくでしょうから、きっと「こんな機会はめったにない」と大集結になるんですね。交通機関超閑散の元旦に東京函館往復で一日中電車に乗りまくってくれる“オタクパワー”って、もしかして大不況の時代のものすごい商売源じゃないのでしょうかね。

これ他人事ではなくて、我々“音タク(音楽オタク)”も同じですね。中高生時代の昔はもっぱらFMエアチェックでの“聞き音(オン)”だったのが、中年になって昔の恨みとばかりに“買い音”やら“演り音(ヤリオン)”、さらには“見音”まで…。CDが売れない時代に紙ジャケシリーズの売切続出状態の爆発的売れ行きや、フェンダーやらギブソンやらの高級“ブランド”楽器の人気、さらには「ビルボード・ライブ」や「コットン・クラブ」のような“昔の名前”が出演する大人のライブハウスの盛況ぶりは、40~50代の“音タクパワー”に相違なしです。ちなみに私は、“買い音”“見音”に散財させられております。

こうしてみると、経済的理由から思い切ったのめり込みができなかった昔に恨みつらみのある、小遣いに多少余裕ができた中高年世代のオタク趣味は、けっこう不景気知らずな感じです。鉄道や音楽はかなりメジャーですが、あらゆる分野に様々なオタクや潜在的オタクは存在する訳です。各業界ともオタク向け商品戦略は、メインにはなり得ないものの大不況時代の底支えにはなるかもしれません。オタクの存在が見当たりにくい分野では、オタクの最も重要な基本構成要素である「コレクター心(ごころ)」を掻きたてるような商品開発で、新たなオタク・マーケットの創造を考えてみる価値もありそうな気がします。

“離党改革派”渡部喜美、“小泉流改革派”に比べて足りないもの

2009-01-13 | マーケティング
自民党の渡辺喜美元行政改革担当相が、予定通り13日午後離党届を提出したそうです。この問題については前回も触れているので、今日は彼の戦略と成否の可能性を多少マーケティング的に勝手な分析をしてみます。

彼の今回の一連の動きを見ていて気がついたのは、彼の今回の戦略は小泉元首相を手本にしているのではないかなということです。改革派の彼が今回「敵」としているのは、改革路線に待ったをかけた麻生総理をトップとした「党内旧勢力」です。まさに「急進的改革派」として「郵政民営化」を旗印に、「打倒旧勢力」を叫んだ小泉氏とイメージがダブるところです。

今回、喜美氏がまず鋒先として分かりやすい改革テーマとしたのが「定額給付金」のストップですが、同時に掲げているのが「官僚の天下り緩和許すまじ」という平易な問題であります。この後者すなわち「官僚制度改革」こそが、これから先々の“首相取り”を目指す長期的展望煮立った上での、小泉戦略の「郵政民営化」あたるものとして自身の“旗印”にしたいテーマなのではないでしょうか。

対マス戦略をマーケティング手法的に見たとき、大衆受けするための手段としての主張の「分かりやすさ」はとても大切です。その意味で「官僚制度改革」は“国の無駄遣い”の根源的問題であり、とても分かりやすく万人受けする恰好のテーマではないでしょうか。とここまではひとまず合格です。

彼の戦略は、まず入口で国民的関心事の「定額給付問題」を取り上げ、続いて「官僚制度改革」をぶちあげる、こうして連続的に話題性を保つことで「国民の味方」を演じ、一躍人気者に躍り出ようということなのでしょう。テーマの取り方はいいとしても、小泉路線での「国民の味方」的人気者への格上げについては果たしてどうでしょう。小泉路線のようなやり方で行く場合、テーマが平易であるだけに「政策通」として国民の信頼を勝ち得ることは難しく、「イメージ戦略」が重要な位置を占めてきます。この点で見ると、小泉元首相にあって彼に欠けているものが多いように思えます。

「イメージ戦略」を支える重要なものに「コピー能力(“写す”方ではなく、コピーライトの方です)」があります。「反対勢力」とか「自民党をぶっ壊す!」とか、小泉元首相の「コピー能力」は、人並み外れたものがあったと思います。貴乃花が優勝した時の「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」という、過去の総理にはない歯切れのよい物言はまさに「改革」をしてくてくれそうな印象を抱かせるに十分すぎる発言でした。そういった魅力的な言葉がアドリブ的に出てくるという「コピー能力」は持って生まれたもの。渡辺氏の話を聞いている限りその能力は全く感じられません。

もうひとつは「印象」「ルックス」の問題。古い人間から見れば、彼は一政治家である前に誰もが知る故渡辺美智雄氏の子息です。渡辺美智雄氏と言えばミッチーの愛称で広く知られ一時期は大派閥の長として総理のイスを目指したものの、相次ぐ自身の失言や失策で届かず、晩年は国民はもとより党内の信頼も失いつつ失意の中無念の病死をした政治家でした。アクの強いパーソナリティで、個性的故良くも悪くもインパクトが強く、ルックスが良く似た喜美氏にはどうしても父の印象がぬぐえず、この点はマイナスに働くように思います。しかも父が急速に求心力を失ったきっかけは、社会党との連立に反旗を翻した今回と同じ「離党騒ぎ」であったと記憶しています。

およそイケメンでない決して良いとは言えない生前の父にそっくりなルックス、強面なイメージ、父も同じ離党騒ぎ…。今回の行動にイメージ的にプラスに働くモノは、何ひとつとしてないのです。ちなみに小泉元首相も二世議員ですが、父純也氏は大臣経験こそあるものの派閥の長になるほど目立った活動がなかった分、良くも悪くも親の印象は薄く(二世議員であることすら忘れられているケースもあります)、その分自身で好きにイメージづくりができるメリットにも恵まれていたように思います。

イメージ戦略を決定づける重要な要素である「聴覚要素」=「発言のインパクト」と「視覚要素」=「ルックス」、いずれの面からもプラス要因が見当たらない今の渡辺氏。戦略的に思い切った策を打って出るにはいささか時期尚早ではないかと思われるのです。自身にストロング・ポイントが乏しいなら、まずは有能な参謀づくりかもしれません。田中角栄における早坂茂三、小泉純一郎における飯島勲、政策でなくイメージ戦略を巧みに使って首相の座を射止めた政治家には有能な参謀が傍らにいました。

渡辺喜美氏の今回の離党が何の企みもないものであるならこれらは全く余計なお世話ですが、もしも本当に戦略的に先を狙っての行動であるなら、まだまだ足りないものだらけで分析力不足の“若気の至り”と結論づけざるを得ないと思った次第です。

〈70年代の100枚〉№58 ~ ルーツとトレンド、絶妙のバランス感覚

2009-01-11 | 洋楽
今年最初の“ユルネタ”は、〈70年代の100枚〉その58です。

76年秋、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がリリースされ巷の話題をさらっていた頃、地味ながら別の意味でアメリカを象徴するバンドのアルバムもチャートを賑わしていました。スティーブ・ミラー・バンド。当時日本でも人気爆発のイーグルスとは対照的に、彼らは国内ではほとんど注目されていませんでした。

№58     「鷲の爪/スティーブ・ミラー・バンド」

ギター&ボーカルのスティーブ・ミラーを中心として60年代後半にデビュー。当初、スティーブ・ミラー・ブルースバンドを名乗っていたことからも分かるように、主にR&Bを基調としたどちらかと言えば渋めのナンバーが中心のバンドでした。初期の一時期には後にAORの旗手となるボズ・スキャッグス(スティーブの高校の同級生)も在籍していましたが、まだまだ大きな成果を残すには至らず短期間で脱退しています。

彼らが大きくブレイクするきっかけをつかんだのは、73年のアルバム「ジョーカー」。アルバム・タイトルナンバーが、ジワジワとチャートを上昇し思いがけず全米№1に輝いたのでした。ブルースを基調とした至って地味でありながら、自然体でメロディアスな一面が大いにウケたのでした。スティーブがこの路線をさらに押し進め、制作に2年以上の歳月をかけて練り上げリリースしたアルバムがこの「鷲の爪」です。このアルバムからは、B1「テイク・ザ・マネー・アンド・ラン」B2「ロックン・ミー」A2「フライ・ライク・アン・イーグル」の3曲が立て続けにヒット。特に「ロックン・ミー」は、「ジョーカー」に続く2曲目の全米№1ヒットを記録し、彼らの人気を決定づけたのでした。

このアルバムが大ヒット(最高位全米2位)し、今だに彼らの代表作として語り継がれているのには理由があります。単なるR&Bではなくポップな要素を含みながら、でも単なるポップにならない、ルーツを明確にしつつもトレンドを見事にミクスチュアさせたオリジナリティがそこにあるからです。例えて言うなら、弊社が生産者が明確な地元妻沼産の野菜を使って人気の洋風懐石を作るみたいな感じでしょうか(ん?)。

先のシングル3曲にもR&Bのムードは感じさせられますが(30周年アニバーサリー版には、3曲のオルタネイト・バージョンが収録され、この点がより明確に分かります)、極めつけはB5「スウィート・マレー」でみせるもろブルース、A5「ダンス・ダンス・ダンス」でのもろカントリーを打ち出した曲づくり。カバーもふるっていて、サム・クックのB3「ユー・センド・ミー」なんてホント泣かせる選曲と演奏です。長年にわたる下積み時代の地道なルーツ音楽に浸った活動があればこそ、可能たらしめたスタイルに違いないのですが、この彼らの流行を追うばかりでない音楽的出生地を自信をもって見せるごまかしのなさが、彼らの最大の魅力であるのです。

このアルバムのヒットの余勢を駆って、次作「ペガサスの祈り」も大ヒットします。しかしヒットシングル「ジェット・エアライナー」や「ジャングル・ラブ」は、スティーブが曲作りに加わらない言わばバンドのルーツに依らない単なるポップ・ソングに過ぎませんでした。こうしたヒット狙いの路線変更やバンドのスタジアム級ヘッド・ライナーへの変貌等、この時期以降数年間の産業ロック化の波に飲み込まれたかのような展開は、明らかに今音楽史を振り返る際の彼らの評価を下げる要因になってしまったのです。

今彼らは原点に立ち返って、R&Bを基調としデビュー作から「鷲の爪」あたりまでのルーツ探訪的ライブをアメリカ国内で地道におこなっているようです。このスタイルこそあるべき彼らそのものです。今こそ大人のライブ・ハウスで、バーボン片手に見てみたいアーティストですね。今年あたりぜひビルボード・ライブに呼んで欲しいものです。

<ニュース雑感>1/9号「野田聖子、豊田章男」

2009-01-09 | ニュース雑感

●野田聖子「給付金で飛騨牛食べるとか…考えます」、ん…何それ?●

政局を揺るがす焦点のひとつである「定額給付金」を受け取るかどうかについて、9日の閣議後の記者会見で各閣僚が質問に答えたそうです。「受け取る」とした閣僚10人に対し、「受け取らない」は甘利行革相1人。「受け取る」派の理由は、「個人消費を伸ばす」など景気刺激がその主なものですが、その考えはちょっと違わないですか?

例えば野田聖子消費者行政担当相は、「極力地元で。飛騨牛を食べるとかいろいろあると思うので、じっくり考えたい」って、「お前何言ってんの?」って感じでしょ(ホント、お前って感じですよ。気ばかり強くて頭は弱い郵政族)。たくさん所得のあるあなた方が飛騨牛食って消費刺激しようって思うなら、自分のお金を積極的に使えばいいわけでしょ。政治家の立場にある人が、税金で金貰わなきゃ消費刺激目的の外食をしない何ていうのは、政治家としての国を思う気持ちがあまりに希薄すぎませんか。

だいたいこの人、やや上向き加減の顔での偉そうな物言い、例のマンナン・ライフの「こんにゃくゼリー」を一方的に悪者扱いした高慢な態度、本当にハナモチならない訳です。他の9人も似たり寄ったり、本当に政治家としてご自身の立場をお分かりじゃないようです。唯一「受け取らない」とした甘利行革相。「家計支援ということで言えば、私は申請しない方がいい。ただ、消費刺激という責務があるから、ポケットマネーから家族に『定額給付』して、地元の商店街で使えと要請する」。たった一人でも、政治家としての本質的な部分がお分かりの方がいたことは、せめてもの救いです。


●豊田章男氏の社長昇格へ~トヨタ14年ぶり“大政奉還”●

トヨタ自動車が6月に創業家の豊田章男副社長(52)を社長に昇格させる人事を固めたことが、本日付の日経1面トップで報じられました。非公式で昨年12月にそのような動きである旨伝わっていましたが、いよいよ正式決定の運びとなったようです。豊田章男氏は、創業者・豊田佐吉のひ孫で、豊田章一郎名誉会長(83)の長男。創業家出身の社長は95年に退任した豊田達郎相談役(79)以来で、ここ3代は創業家以外からの社長が続いており14年ぶりの「大政奉還」となるそうです。

なぜ今「大政奉還」か?トヨタは先日、記録上では戦後初の営業赤字決算を発表したばかり。昨年前半のガソリン高騰、後半の米国金融危機の影響で売り上げが大幅ダウン、引き続き前年比40%以上の減収と言う危機的状況下にある“世界のトヨタ”を、創業家の求心力で結束固めをし乗り切ろうという腹のようです。

一見すると、松下と並ぶ日本的経営の代表“世界のトヨタ”の実に日本的と思ってしまう戦略的人事ですが、フランスのナポレオン一族、アメリカのケネディ家と、危機的局面で人々の結束を固くし一丸とするためには、海外でも“ブランド・ファミリー”の力を借りる戦略は古くから行われていることです。トヨタの今回の狙いはまさに「原点回帰」。創業家への「大政奉還」を「原点回帰」の象徴として、世界戦略下でやや疎かになっていたとされる「トヨタ方式」の再徹底をはかる模様です。“世界のトヨタ”の復活は日本経済の回復に直結する訳で、端で見守る我々は「原点回帰」ということだけでなく、若い50代の章男氏がどんな手腕をふるうのか、大いに注目したいところです。

「坂の上の雲」に学ぶ、“ポジティブ・シンキング”の大切さ

2009-01-08 | 経営
NHKは今年の秋から約3年間にわたる不定期連続ドラマの一大プロジェクトとして、司馬遼太郎原作の名作「坂の上の雲」を放映するそうです。

この作品は司馬遼太郎の数ある歴史小説の中でも名作中の名作との誉れ高く、68年の新聞連載スタート以来、書籍販売部数は累計で2000万部以上と言う驚異的な売上を記録しています。多くの司馬遼ファンからは古くから、大河ドラマ等での映像化を望む声も多かったものの、単純な時代劇ではなく明治時代の主人公と多数の登場人物たちが繰り広げる大長編かつテーマの取扱における表現上の難しさ及び司馬遼太郎本人の難色姿勢もあり、これまで何度か噂になっては消えてきた企画でもあります。

「坂の上の雲」は、明治維新から日露戦争までの約40年間を、軍人である秋山好古・真之兄弟と歌人正岡子規らの生き様を通して、当時日本近代化の「夢」や「希望」をもち前向きに進み続ける「志」を描いた小説です。新聞に連載された68年から72年は、高度成長期の真っ只中。その時代を支え続けた我々の父親世代のビジネスマンたちの共感を呼び、圧倒的な支持を得たのでした。思い起こせば、我が家の父の書棚にも、ハードカバーの「坂の上の雲」各巻が並んでおりました。

物語の魅力は、何といっても主人公3人の「志」と「生き様」です。秋山好古は当時世界最強と言われたロシアのコサック騎兵に挑み勝利。弟の真之は日本海海戦の作戦を練り、常識外の戦術でロシア海軍を破りました。正岡子規は重病を患いながらも楽天的に生き、短い生涯の中で旧弊と戦い続けて俳句・短歌の革新を成し遂げました。3人に共通した「志」は欧米列強に追いつかんとする国を思う一途に前向きな姿勢であり、時代に立ち向かった「生き様」は徹頭徹尾一貫した楽天主義でありました。

作者司馬遼太郎は、本作のあとがきで感動的な表現でこう記しています。
「楽天家たちはその時代人の体質として、前のみを見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の一朶(いちだ)の雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくだろう」

なぜ今「坂の上の雲」なのか、NHKの担当プロデューサー氏がコメントしています。
「列強に囲まれ食うか食われるかの明治時代を生きた秋山好古、真之兄弟と正岡子規は、国の状況と自らを重ね合わせて生きました。政治や経済の混迷に将来への不安を抱く我々には、きっと百年前の彼らの「志」や「生き様」にこれからの歩むべき道筋が見えてくるでしょう」

作者のコメントに込められたこの大作をして伝えたかった趣旨は、昭和の時代の映像文化には高度すぎて時代が追いついていなかったと思えます。作者が映像化を拒んだ理由もそこにあるのでしょう。それが40年の時を経て今、ようやく物語の趣旨が正しく理解され多くの人に共感を与えうる時代が来たということなのかもしれません。

秋山兄弟が挑んだ日露戦争は、当時の常識では日本が勝てるはずのない大国ロシアに対して前向きかつ楽観主義的に立ち向かい、不可能を可能たらしめた世界史上の大事件と言っていいでしょう。翻って今を考えるに、不況の時代に恐れをなして後ろ向きになり、悲観的なことばかりを考えていては早く抜けるはずの不景気の煽りから、なかなか抜けられないかも知れません。こんな時こそ彼らの「志」に学び、時代に立ち向かう「前向きな姿勢」とポジティブ・シンキングを見習うべきなのかもしれません。

あの時代は国全体が、そこに生きる人々すべてが、目の前に浮かぶ雲(夢、目標)を見つめながら近代化への坂を上り、その実現に向けて突き進んでいった時代でもあったのです。景気下降線の弱気に押し切られてしまいそうな今の時代にあって、百年前の彼らの前向きな「生き様」は、混乱の時代を生き抜く経営者たちに何か重要なものを教え勇気づけてくれるのではないかと思います。この秋からの放映が楽しみです。

不景気の時代には、「“い”の一番」より「“り”の一番」?

2009-01-07 | その他あれこれ
この時期、行く先々(飲み屋系?)で「大関さん、今年の抱負は?」と聞かれます。今年の私の答えは、「“あせらず、ゆっくり”ですね」といったところ。

本来の詳細な抱負は2日および4日のブログ記載の通りなのですが、まぁ外で抱負話を長引かせず一言で終わらせる場合は、こんな答え方をしています。と昨晩もそんな話をして、帰って斎藤茂太さん(医師&エッセイストで、斎藤茂吉氏の長男、作家北杜夫氏実兄。06年没)の本を読んでいると、バッチリなタイミングで出てきました“ゆっくり力”なる言葉。茂太さんは、「のんびり」「ゆったり」いい人生をおくられた方でした。

“ゆっくり力”は、あせらないことがすべてをうまく行かせるコツだよと言うお話で、「い」よりも「り」を大切にしようと述べています。「い」とはすなわち、「速“い”」「強“い”」「高“い”」といった「い」のつく姿勢。対して「り」は、「ゆっく“り”」「のんび“り”」「ゆった“り”」など、「り」のつく姿勢です。「い」と「り」って、形は似てるけど意味は真逆の非なるものなのです。茂太さんは、「現代社会の進歩をもたらしたのは“い”の文化だけれども、これから本当の豊かさを作り出すのは“り”の文化の方」と言っているのです。

なるほど、この話って今のような不景気な時代にピッタリな考え方のように思いました。景気が悪いのだから、結論を急ぐ必要なし、先を急ぐ必要なし、無理に力む必要なし、あえて背伸びする必要なし…、なのです。こんな時期に先急いだり、力んだり、背伸びしたりしても、何の得もありませんよね。「い」の姿勢よりも「り」の姿勢、「あせらず、ゆっくり」が良いんじゃないかと思います。景気の良い時であるならば失敗の取り返しも容易ですが、今のような下降局面では大きな失敗はリカバリーするのが大変であるばかりか、致命傷にもなりかねないですからね(間違っちゃいけないのは、失敗や先行きの不透明感を恐れるあまりの「足踏み&後ろ向き」行動はダメだということ。「あせらず、ゆっくり」でも前に向いて進むことを忘れちゃいけません)。

組織内の問題として考えるなら、上に立つ人ほどこんな時期は「ゆっくり」が大切です。部下の多少の失敗をすぐカッときて怒ったりしないこと。ただでさえ、景気が悪くて賞与が下がったとか給与が下がるかもしれないとか、社員の気分が沈みがちな時ですから、些細なことでも組織のムードをドッと悪くさせます。管理者だけでなく社長までもがこんな時期に怒りっぽかったり、物事を“短気”に考え結論を急いだ独善的で強引なやり方(特に人事問題)は最悪ですね。短気を起こさず、「ゆったり」構えましょう。

会社の事業もそう、好景気時のようにやみくもに「速い」「強い」「高い」を目指すのでなく、一見「ゆっくり」「のんびり」「ゆったり」とも思えるほど、腰を落ち着かせて取り組んだほうが、長い目で見て結果オーライのような気がします。なにしろ景気だって回復は「ゆっくり」に違いないんですから。やはりここでも、「い」のつく姿勢よりも「り」のつく姿勢。斎藤茂太式『<“い”の一番>より<“り”の一番>の法則』といったところですね。

<NEWS雑感> ~ 1・5号 「麻生太郎、渡辺喜美」

2009-01-05 | ニュース雑感

●麻生首相、今度は書き初めで“筆滑る”●

正月1発目の「NEWS雑感」は、首相に敬意を表して“太郎ちゃんネタ”です。

麻生首相が4日の年頭記者会見で見せた「書き初め」の落款(らっかん)が話題になっています。落款は書画に添える筆者の署名で、直筆の日付が「平成廿十一年…」となっているそうで、これをめぐってインターネット上で「『廿十一』は『廿一』が正解ではないか」と指摘される騒ぎに。実は自民党ホームページ上では元日付で既に首相の「年賀状」を掲載し、ここにも同様に「平成廿十一年元旦」と記されていたようです。国語辞典などによると「廿」は1文字で「二十」を意味し、「下の『十』はいらない」とのことで、またもや太郎首相の漢字をめぐる失態が…。良く分らないのなら、下手に背伸びしてカッコつけたことを書くのは辞めておけばいいのにねぇ…。
 
太郎首相は昨年、漢字で痛い目にあっているわけですが、前回の失態はフリガナなしによる読みの間違いですから、その場ではもう止めようのなかったのも事実です。ところが今回は“書き”ですから、会見前やHPへアップする前にチェック可能だったのではないかと思う訳です。与党内からも「首相官邸のチェック体制はどうなっているのか」と、度重なる不必要なイメージダウンの上塗りに非難の声も聞こえているとか。首相の相次ぐ漢字がらみの失態、首相の教養水準の問題もありますが同時に周囲のスタッフの管理レベルの低さもかなりあるということがはからずも判明した形です。



●渡辺元行革相、解散など求め一時(?)「離党」へ●

自民党の渡辺喜美・元行政改革相は5日、石原伸晃幹事長代理と国会内で会い、衆院の早期解散や定額給付金の撤回などを麻生首相に求め、「速やかかつ真摯に検討されない場合、離党する」と明記した提言書を手渡したそうです。一方の太郎首相は要求に応じない考えで、渡辺氏の離党(一時的?)は確実な情勢のようです。

これはどうみてもカッコつけの“目立ちたがりパフォーマンス”ですよね。自民党の人気急落を見るや、「自分は他の連中とは違うぞ」との来るべき総選挙に向けたアピール行動以外のなにものでもないでしょう。党内でも集中砲火の麻生相手なら「何でもあり!」とばかりに繰り出した“秘策”だったのでしょうが、あまりに“中身”がありません。政権政党内で内閣批判をして“国民の味方”を標榜するのなら、現状の“無策内閣”に対してちゃんとした自己の政策論議をぶつけていくのがスジであると思います。

「総選挙で国民の審判を仰げ」「定額給付は撤回せよ」だけでは、野党が何度も言っていることであり、目新しさがないばかりか与党議員が野党と同じスタンスで批判だけをおこなうのは愚行の一言です。加えて与党内から出た中身のない政権批判は、単にさらなる自民党のイメージダウンになるだけではないのでしょうか。思えば彼も二代目。やはり代議士一家の坊ちゃん育ちは、どうも足りない部分が多いようですね。