日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

<音楽夜話> Gの悲劇

2008-07-21 | 洋楽
ポール・サイモンの話を書いていて思い出したエピソード。サイモン&ガーファンクル解散後のアート・ガーファンクルはポールのやり方とことごとく衝突し、80年代以降の彼らは“S&G不仲”の歴史だったという話です。

81年9月、サイモン&ガーファンクルが突然再結成して、NYセントラルパークでフリーコンサートを行いました。言いだしっぺはポールでした。当時彼は、自身が脚本、主演、演出、音楽を担当した映画「ワン・トリック・ポニー」が惨敗し、失意の真っただ中。ソロでの復活に自信が持てず、自身の精神的リハビリテーションを兼ねてアートに声をかけ、S&Gの再結成コンサートを持ちかけたのでした。ポールの発案で実現したこの再結成コンサート、選曲、バックメンの選択等すべての決定権は当然のようにポールが握ります。結果、コンサートは50万人以上を集め大成功したもののアートには不満の残るものだったようです。

後になってアートがこう語っています。「僕のソロ曲はたった1曲。彼のは7曲もやっているのにだよ。僕だって当時はたくさんのヒット曲を持っていたしね。バンドにしても、僕はシンプルなアコースティックが良いと言ったんだけど、ポールはフルバンドでいくと譲らなかった。しかも彼のバックメンで。僕はこういう状況で彼に勝ったためしがない。昔から彼の押しの強さに傷つけられてばかりなのさ」。

それでも、コンサートの大成功を受けて、彼らはワールドツアーに出ることになり、さらには11年ぶりにS&Gとしてのニューアルバムを制作することに…。すべて、ポールの考え中心に既定路線化したものでした。そしてまた、アートには悲劇が起こります。

「シンク・トゥ・マッチ」と名付けられたサイモン&ガーファンクルのニューアルバムは、ポールが曲を作り制作に入ります。しかし、アートがコーラスパートのアレンジに自己主張をしたことに対して、ポールが自分の作品に手を加えてほしくないという考えからこれを拒否し、制作は暗礁にのりあげました。そして、プロジェクトは頓挫。結局このレコーディングは、「ハーツ・アンド・ボーンズ」というポールのソロ作として、アートのコーラスパートは消去されたものがリリースされ終息したのでした。

とここまで、どこかポールを攻めてアートを擁護するような書き方になってしまいましたが、その意図はまったくありません。アートにとっての悲劇は、天才的なコンポーザーであり、アーティストであるポール・サイモンが、単に美しい声を持ったボーカリストにすぎない彼のパートナーであったということ。ポールはこの一件を後にこう語っています。「ハーモニーひとつでも、彼に任せる気はなかった。それが60年代のサイモン&ガーファンクルとの決定的な違いだったから」。

アートが求めたボーカリストとしての主張が、ソロを経て一層アーティスト然としたポールにことごとく退けられるのはある意味やむを得ないことでもあったのです。名称は50/50の「サイモン&ガーファンクル」であっても、実際には「ポール・サイモン・サポーティング・ウイズ・ガーファンクル」であると、ガーファンクルももっともっと早く理解すべきだったのかもしれません。

ガーファンクルがソロで売れたのも、その前にサイモン&ガーファンクルがあってのことであり、サイモン&ガーファンクルの名声は稀代のメロディ・メーカー、ポール・サイモンの才能があってこそ成り立ちえたデュオだったのですから…。

ポールのソロ作となった「ハーツ・アンド・ボーンズ」は、サイモン&ガーファンクルの新作を期待していた多くの音楽ファンの“落胆”もあってか、商業的に惨敗しました。しかしながら、アルバムの中身はものすごく濃く、個人的には彼のソロアルバムの中でも確実に3本指に入る出来であると思っています。

このアルバムを、サイモン&ガーファンクルとして聞いてみたかった…、“S&G不仲”の本当の悲劇は私をはじめとする熱心な音楽ファンにこそあったのかもしれません。

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