日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

改めて考えさせられる理研の組織責任ということ

2014-08-07 | 経営
STAP論文の共著者で小保方さんの上司でもあった理研の笹井芳樹氏が自殺されたと言うショッキングなニュースが、話題になっています。笹井さんは、STAP騒動における取材攻勢や非難の声に疲弊したのでしょうか。STAP騒動は一人の科学者の命を奪うと言う最悪の事態に展開してしまいました。

私はこれまでも、今回の騒動に関して組織論の立場から、独立行政法人である理研の組織としての論文瑕疵発覚後の行動に疑問を呈してまいりました。今回、関係者の自殺と言う最悪の事態を迎えたことに際して、改めて組織の責任ある行動とは何かを我々は問い直すべきであろうと思っています。

個人の責任とその個人が属する組織の責任はどうバランスされるべきであるのか。今回の一件は、笹井氏の自殺の動機がハッキリとしない現段階で断定的なことを申し上げるのはいささかはばかられるところではあります。しかしながら、メディアで報じられている氏の体調不良や傍からもうかがい知れたという精神的なダメージの話から推察するに、STAP騒動において笹井氏個人は氏に課された責任の重圧に押しつぶされたという印象を強くしております。

そこまで個人が責任を負わなくてはいけないものであるのでしょうか。本来組織が負うべき責任を組織が意図的に回避してきたが故の、個人への重圧だったのではないかと私には思えています。

法人には当然法人としての責任があります。そして法人の傘の下で行われた業務に関して、不祥事やそれに類する事態が発生した場合には、まず法人の責任が何よりも優先されるのは当然のことなのです。特に独立業績法人理研が、税金により研究開発費をねん出している以上、その研究における瑕疵は当然まずは組織が負うべきものであるはずです。

しかしながら理研はどうであったかと言えば、積極的に事実関係を検証し関係者の意見をとりまとめ組織としての対処および責任の所在を明確することなく、組織曰く「未熟な若手研究者」とその指導者に責任を負わせたまま、これまで飼殺しかつさらし者的状態を続けてきたとは言えないでしょうか。トップがその進退をあきらかにすることばかりが責任の所在を示すことではありませんが、これまで組織として組織のトップとしての責任を負うという立場での発言はほとんど聞かれることがないのは、私から見れば異常な組織運営に思えてなりません。

この手の話をするとこれまでも、科学分野に携わっておられると思われる皆さまから、「理研を組織論で論じることは科学者の世界を知らない無知な意見」などとご批判をいただいております。しかしながら、科学者の世界であろうとなかろうと税金を活動原資とする組織が行革によりその無駄遣いをチェックしようと独立行政法人化された以上、法人として組織論の及ぶ管理が求められるのは当然のことであります。

それができなかったこと、組織としての管理不在を結果として許してきてしまったことが、組織としての責任回避を生みプロジェクト管理者個人に必要以上の責任を負いかぶせることになったのではないか。それが笹井氏を精神的に苦しめ追い込んでしまったのではないかと、私は感じるのです。

理研の広報室長による笹井氏の自殺を受けての会見においても、組織としての責任を感じさせる発言はほとんど聞かれることがありませんでした。家族はどう思われるのでしょうか。組織は生活の糧を提供する存在である限りにおいて、その組織に帰属する者と同時に生計を一にする人たちに対しての責任もまた負っているのです。

理研は今回の哀しい出来事を受けてその組織運営のあり方をただすべきであると切に思うとともに、国は独立行政法人の管理強化およびその見直しを含めた議論を早急に展開していくべきではないかと思うのです。そして同時に世の経営者の皆さんには、組織の責任という概念を今一度問い直してみる機会としていただきたいと感じています。

笹井芳樹氏のご冥福を心よりお祈り申しあげます。