日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「ごめんなさい」が言えない“エライ人”、3つの理由

2012-03-14 | 経営
昨日のエントリー「東電西沢社長が見せた究極の“やってはいけない”」が、BLOGOSでお読みいただいた皆さんから大変多くの「支持する」を頂戴しました。最近、これに次いで「支持する」をたくさん頂戴したのは、2月24日のエントリー「渡邉美樹さん、「ごめんなさい」から始めましょうよ」でした。この双方に共通するのが、迷惑をかけた相手に対して、面と向かい合って「ごめんなさい」が言えない企業、経営者の姿勢を、企業のあるべきを考える立場から「問題あり」としたエントリーであったということです。

なぜ、このふたつのエントリーが比較的多くの方から「支持する」とクリックしていただけたのか。それは、このふたつのエントリーを読まれた方の身の回りにも同じような方がいたり、過去に似た経験をしたりして、「なんでこの人、素直に謝らないんだよ!」と胸につっかえたままの不快感が、この二つの事件で思い起こされ、事件の主人公が批判的に取り上げられたエントリーを読むことで「そうだろ!そうだろ!」と胸のつっかえが少しはとれたというものなのではないのかな、などと勝手に思ったりしています。

要するに、この手の「ごめんなさい」が言えない“エライ人”や“エライ会社”や“エライ政治家”“エライ役人”っていうのが、実に世に多いということに他ならないのではないでしょうか。当然、私も“エライ会社”や“エライ役人”や“エライ経営者”、“エライ管理者”をたくさん見て来ました。その結論として“エライ”人たちが「ごめんなさい」を言えない理由は、3つあると思っていますので、ちょっとそれを書いてみます。

まずひとつ目。「エライ人やエライ会社は、あやまる必要がない」あるいは「あやまってしまったら、権威が失墜する」と勘違いしている。
これは一番多いケースかもしれません。どうやら「あやまる」という行為は、目下の者が目上の者に対してする行為である、と思っているようです。エラくなってしまうと、プライドが作り上げる虚構の思い上がりからとんでもない思い違いをしてしまうようです。「あやまる」と言う行為は、他者に対して迷惑をかけたという事実があるのであれば、上下なく人として最低のモラルを持ち合わせていることを表す行為として、当然求められるものなのです。個々の職位の上下はもとより勝手な職業の貴賤判断などにより、「必要ない」などと考えるのは論外です。

二つ目。「あやまる」ことはイコール自己の「非」を認めることであり「敗北」を意味する、などと常に“勝ち負けの論理”でものを考え、相手との人間関係を重視しない。
“エラく”なった人や会社は、勝ち上った結果として今の地位があると無意識の意識があるわけで、自ずと「勝ち負け」にこだわり「負け」を極端に嫌う傾向があります。「敗北者」としての弱者切り捨てや「負け犬」のレッテル化によるパワハラなどは、すべて“勝ち負けの論理”で自己の勝者化を確認する作業でもあるのです。ホント嫌らしいですね。会社で一番ありがちなのは、顧問弁護士などの「あやまってはいけません、あやまれば裁判で“負け”ますよ」というアドバイスで、“勝ち組意識”に火がついて決してあやまらないというケース。自己の「勝ち」にこだわるがために、人として大切なものを捨ててしまう、何とも悲しい話です。

三っつ目。「あやまる」と言う行為を単純に恥ずかしいことだと思っている。
これはひとつ目の解釈とも関係がありますが、目下の者がするべき行為を“エライ”人がするのは恥ずかしいと思っているということです。よく言えば「照れ屋」、「ごめんなさいは?」と言われた子供なら言えなくてモジモジして「照れてるの?ボクかわいいねぇ~」で済むかもしれませんが、“エライ”立場の人や会社は自己の“開物(本質の見える化)”ができていないという点でコミュニケーション能力に「?」が3つぐらい付きます。一事が万事、素直に非を認めてお詫びのコミュニケーションが取れないような人や会社は、決して信用されないということを心に刻むべきです。

東電のケースも渡邉さんのケースも、3番目のようなかわいいものではなさそうですから、1番目の思い上がりと2番目の捨てきれない「勝ち組」意識の複合がそうさせているのではないでしょうか。鼻につく思い上がりや、場違いな「勝ち組」意識が一般の人から見るととても不愉快な気分にさせられるのだということも、“エライ”人や会社は十分に理解した上で自身の言動には気をつけないといけないと思います。ただ初めからそれが理解できるなら、叩かれることにはならないってことでしょうけど…。