70年代当時は世にも珍しい白人ファンク・バンドのアベレージ・ホワイト・バンド。バンド名を直訳すれば、「平均すれば白人バンド」。スコットランド出身の全員白人の英国人バンドでありながら(後に黒人メンバーも加入)ブラック・ミュージックを手掛ける彼ら一流の、何とも人を喰ったバンド名な訳です。
№88 「ピック・アップ・ザ・ピーセズ/アベレージ・ホワイト・バンド」
彼らの曲を初めて聞いた時には、間違いなく黒人バンドであると疑いを持たずにおりました。こんな典型的なファンク・ミュージックをやっているバンドが白人であるはずがないと思ったからに他なりませんが、さらに彼らが英国のバンドと聞いて二度ビックリでした。カッティング基調のギターにホーン・セクションを加えた、なんともダンサブルなナンバーたち。ボーカルもハイトーンで、贅肉をそぎ落とした歌い方で聞かせてくれます。まさしくブルー・アイド・ソウル?ロック、ジャズ、ソウル、ファンクの融合。ある意味では、これぞAORと言ってもいいのかもしれません。AOR元年と言われる74年に、ニック・デカロの「イタリアン・グラフィティ」とは別のスタイルで、ブラックやジャズとの融合をめざした新しい白人のアプローチが始まっていた訳ですから。
74年リリースのアルバム「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」は彼らのセカンド・アルバムで、当時グラム・ロック全盛の母国英国を後にしてアメリカ完全移住をはかっての本作リリースは見事に成功、予想外の大ヒットを記録します。このアルバムではとにかく、捨て曲なしのダンサブルなナンバーが次から次へと登場し、本場アメリカのどの黒人バンドにも負けないファンキーな演奏を聞かせてくれます。何といってもハイライトはキャッチーなタイトル・ナンバーA3「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」と、黒人ファンク・バンドであるアイズレー・ブラザースのカバーA5「ワーク・トゥ・ドゥ」でしょう。演奏も当然達者ながら、アラン・ゴリーのボーカルも実に黒っぽくていいのです。
ちなみに「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」は、その後もいろいろなところでBGMやイントロがSE的に使用されたりして音楽ファン以外も耳にしているであろう超有名曲ですが、この曲はインスト・ナンバーでありながら75年初頭に全米№1に輝いているのです。アルバムも同じく75年全米№1を獲得。ちょうど同時期は黒人のファンク・バンドであるオハイオ・プレイヤーズ(シングル「ファイヤー」が№1ヒット、エッチなジャケットが人気でした)も全盛期にあたり、「シャイニング・スター」が№1に輝いたアース・ウインド&ファイアーも含め74~75年はファンク・ミュージックのアタリ年であったと言っていいでしょう。中でも彼ら“白いファンク”の登場は、“流れ”を“うねり”変える役割を果たしました。この時期のファンク・ムーブメントにおけるアベレージ・ホワイト・バンドの活躍は、その後の白人バンド=ビージーズを頂点に据えた70年代ディスコ・ブームの到来に確実な影響を及ぼしたと言っていいと思うのです。
アベレージ・ホワイト・バンドはこの後、同路線のノリで「カット・ザ・ケイク」をヒットさせますが、その後はややバラードに比重を置くような作品づくりになり、徐々に人気は下降線をたどって82年に解散。その後、オリジナル・メンバーを中心として再結成され、現在はステージを中心に活動を続けています。近年は時々来日もしていて、赤坂「ブルー・ノート」六本木「スイート・ベイジル139」丸の内「コットン・クラブ」六本木「ビルボード・ライブ」など、場所は比較的小ぶりなハコではありますが70年代と変わらぬ熱いファンクを聞かせてくれていて、何とも嬉しい限りです。
№88 「ピック・アップ・ザ・ピーセズ/アベレージ・ホワイト・バンド」
彼らの曲を初めて聞いた時には、間違いなく黒人バンドであると疑いを持たずにおりました。こんな典型的なファンク・ミュージックをやっているバンドが白人であるはずがないと思ったからに他なりませんが、さらに彼らが英国のバンドと聞いて二度ビックリでした。カッティング基調のギターにホーン・セクションを加えた、なんともダンサブルなナンバーたち。ボーカルもハイトーンで、贅肉をそぎ落とした歌い方で聞かせてくれます。まさしくブルー・アイド・ソウル?ロック、ジャズ、ソウル、ファンクの融合。ある意味では、これぞAORと言ってもいいのかもしれません。AOR元年と言われる74年に、ニック・デカロの「イタリアン・グラフィティ」とは別のスタイルで、ブラックやジャズとの融合をめざした新しい白人のアプローチが始まっていた訳ですから。
74年リリースのアルバム「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」は彼らのセカンド・アルバムで、当時グラム・ロック全盛の母国英国を後にしてアメリカ完全移住をはかっての本作リリースは見事に成功、予想外の大ヒットを記録します。このアルバムではとにかく、捨て曲なしのダンサブルなナンバーが次から次へと登場し、本場アメリカのどの黒人バンドにも負けないファンキーな演奏を聞かせてくれます。何といってもハイライトはキャッチーなタイトル・ナンバーA3「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」と、黒人ファンク・バンドであるアイズレー・ブラザースのカバーA5「ワーク・トゥ・ドゥ」でしょう。演奏も当然達者ながら、アラン・ゴリーのボーカルも実に黒っぽくていいのです。
ちなみに「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」は、その後もいろいろなところでBGMやイントロがSE的に使用されたりして音楽ファン以外も耳にしているであろう超有名曲ですが、この曲はインスト・ナンバーでありながら75年初頭に全米№1に輝いているのです。アルバムも同じく75年全米№1を獲得。ちょうど同時期は黒人のファンク・バンドであるオハイオ・プレイヤーズ(シングル「ファイヤー」が№1ヒット、エッチなジャケットが人気でした)も全盛期にあたり、「シャイニング・スター」が№1に輝いたアース・ウインド&ファイアーも含め74~75年はファンク・ミュージックのアタリ年であったと言っていいでしょう。中でも彼ら“白いファンク”の登場は、“流れ”を“うねり”変える役割を果たしました。この時期のファンク・ムーブメントにおけるアベレージ・ホワイト・バンドの活躍は、その後の白人バンド=ビージーズを頂点に据えた70年代ディスコ・ブームの到来に確実な影響を及ぼしたと言っていいと思うのです。
アベレージ・ホワイト・バンドはこの後、同路線のノリで「カット・ザ・ケイク」をヒットさせますが、その後はややバラードに比重を置くような作品づくりになり、徐々に人気は下降線をたどって82年に解散。その後、オリジナル・メンバーを中心として再結成され、現在はステージを中心に活動を続けています。近年は時々来日もしていて、赤坂「ブルー・ノート」六本木「スイート・ベイジル139」丸の内「コットン・クラブ」六本木「ビルボード・ライブ」など、場所は比較的小ぶりなハコではありますが70年代と変わらぬ熱いファンクを聞かせてくれていて、何とも嬉しい限りです。