日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉No.19 ~ 70年代洋楽世代の“バイブル”

2008-04-27 | 洋楽
リアルタイムでビートルズには接していませんでした。でも、洋楽にハマる前からビートルズの名前は知っていましたし、ビートルズと聞くと、丸メガネで長髪のジョン・レノンの風貌が象徴的に浮かんでいました。

そんな“僕ら”アフター・ザ・ビートルズ世代にとって、洋楽入門期の73年に出された2枚組2セットのベスト盤は、本当にありがたいものでした。

No.19「ザ・ビートルズ'67~'70/ザ・ビートルズ」

私が洋楽にハマり始めた73年、ビートルズの解散から既に3年が経過し、4人のメンバーが各々個性的で優れたアルバムをリリースすることで、より一層ビートルズの実力の高さを見せつけつける形になり、「再結成」を切望する声が高まりつつあったのでした。そんな中、突如リリースされた、ビートルズ初の本格ベストアルバム。初期のヒット曲に関しては、アルバム「リボルバー」発表後で「サージェント・ペパーズ…」前の67年に、「オールディーズ」というタイトルでシングルヒットばかり16曲をおさめたアルバムが出されていましたが、全キャリアを通じてのベスト盤のリリースは初めてのことでした。

2枚組2セットというボリュームのベストアルバムがこの時期に突如リリースされたことで、巷では“再結成近し!”の噂が一層信憑性を帯びて語られたのです。実はリリースの真相ですが、ブートレグ(海賊盤)で、「ビートルズVol1」「同Vol2」という4枚組2セットのベスト盤がリリースされ、海賊盤としてはかなり驚異的な売り上げを記録していて、それを阻止して著作権を守るということがあったように聞いています。正規盤の2セットは、本物の“ハク付け”の意味で、「ジョージ・ハリスン選曲」というのが、当時のレコード会社の謳い文句でした。

“喧嘩状態”と言われたジョン、ポールの選曲でなく、音楽的にいまいちのリンゴでもなく、間を取り持つ印象の強いジョージが制作にかかわったとする販売戦略乗せられて、「もしかして、ジョージの仲裁でビートルズ自体も復活?」という期待感が嫌が上にも高まったわけです。

このアルバムは、5月26日にビルボード誌アルバムチャート№1に輝いています。ちなみに、その翌週から3週間の№1獲得したのがポールの「レッド・ローズ・スピードウェイ」(№1シングル「マイ・ラブ」収録)、さらにその翌週から5週連続№1となったのがジョージの「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(№1シングル「ギブ・ミー・ラブ」収録)ですから、当時のビートルズ復活期待気運の盛り上がりぶりが、お分かりいただけると思います。

さてさて、我々アフター・ザ・ビートルズ世代はと言えば、とにかくこの“赤盤”“青盤”と言われた2枚組2セットを聞きまくった訳です。まさに、当時の洋楽ファンの“バイブル”でした。本当にジョージが選んだのかどうかは別にしても、選曲も最高です。特に青盤。「サージェント・ペパーズ…」以降はツアーも止め創作活動に没頭しただけに、アルバム単位で聞かせることが中心になったので、ベスト盤制作はかなり難しい作業であったと思われます。

ポールの収録作品がほとんどシングル曲中心であるのに対して、「ルーシー・イン・ザ・スカイ…」「アイ・アム・ザ・ウォラス」「アクロス・ザ・ユニバース」「ドント・レット・ミー・ダウン」等のジョン作の選曲の妙を見るにつけ、当時ポールよりもジョンに近かったジョージが本当に選曲したのかなと思わされたりもします。

最後にマニアックな情報をひとつ。
CD版“青盤”収録の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のお話です。「サージェント・ペパーズ…」およびLP版“青盤”収録バージョンでは、イントロの出だしが前曲最後の歓声SEがかぶって聞き取りにくいのですが、CD版では歓声が取り除かれてイントロはじめのジョンのアコースティック・ギターが完璧に聞こえます。ちょっと感動ですよ。