日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

<音楽夜話>魔法使いは真実のトッド

2008-01-12 | 洋楽
トッド・ラングレン話が思いの外の盛り上がりだったので、続編です。

トッドが日本で最初に盛り上がったのは、74年頃。2枚組の名盤アルバム「サムシング・エニシング」を、日本独自に1枚に編集した(当時のことですから、無許可“勝手編集”ですよね)「ハロー・イッツ・ミー」なるLPでした。タイトル・ナンバーもシングルが切られて、深夜放送などでけっこうかかっていました。

なんと言っても強烈だったのはアルバムのジャケ写真で、孔雀のような羽衣装に化粧顔でマスカラマツゲがヤケに目立つ、“三輪さん”もどきのトッドのアップだったのです。私が関心を持ったキッカケはまさにこの写真。当然キモかったのですが、グラムロックのニュー・フェイスに違いないと思って聞いてみたのでした。

当時のレコード会社各社の洋楽セールスはと言えば、どちらかと言えばゲテモノ的見てくれを前面に押し出して、まずは関心を引くというやり方が常套でした。なにしろ、まだまだビートルズ以外は、洋楽そのものが市民権を十分に得ているとは言い難い状況でしたから。

したがって、オリジナル・アルバムの花のイラストジャケットを使ったのでは、お話にならないという判断だったのでしょうね。
私のようにグラムロックと間違えたり、当時人気絶頂だったミッシェル・ポルナレフあたりと同類と思わせられれば、という意図があったのだろうと、今になって分かる気がします。

次に大々的に話題になったのは(とは言っても一部の洋楽マニアの間での話)88年頃。廃盤だったトッドのアルバムの一斉復刻と、それに続くソロ来日公演でした。

アルバムの復刻事件は、雑誌「ミュージック・マガジン」(中村とうよう責任編集だったレココレの親分雑誌)+「レココレ」での、大トッド特集となりピークを迎えました。レコード会社も、「ミュージック・マガジン」の表紙イラストレーターが描く似顔絵ジャケ(=写真)の、日本独自ベストCDをリリースするほどの力の入れようで、今思えばトッドとしては異常な盛り上がりだったように思います。

私的にはと言えば、初めて聞く2枚組“完全版”の「サムシング・エニシング」、それまで中古盤屋で高嶺の花で手が出せなかった「バラッド・オブ…」などなどを入手し、まさに聞き倒しておりました。

88年の来日では、渋谷タワーレコード(東急ハンズ近くにあった時代です)でなんとサイン会があったのですよ!私はサインはもらわなかったですが、スッゴい気さくな人柄で、気軽に握手とかしてくれたのを覚えています。こんな大物のストア・イベントも今みたいな“芋洗い”状態じゃなくて、なんかすごくアトホームで和気あいあいとした時代だったなぁと懐かしく思います。

それで、同じ日の夜に渋公でみたワンマン・コンサート。これがものスゴくて、いまだにその感動をよ~く覚えています。当時では珍しかった完全打ち込みのバンドデータとトッドのギター、ピアノとの“競演曲”と単純な弾き語り曲を織り混ぜたライブは、未来のコンサートに招待されたような新鮮な驚きと感動の連続で、天才トッドはやはり魔法使いであったと、つくづく実感させらたのでした。

廃盤復刻記念ライブだったので、選曲もベスト・オブ・ベスト。「ラブ・オブ・ザ・コモンマン」「アイ・ソー・ザ・ライト」「ジャスト・ワン・ビクトリー」「キャン・ウイ・スティル・ビー・フレンド」などなど。鳥肌が立ち過ぎて、風邪ひいたのを覚えています。あはは…。

聞くところによると、現在はハワイ在住とか。似合わないなぁ~。個人的には、いくつになっても変わらず、ニューヨークの小汚い裏通りあたりの地下スタジオで、マニアックな音づくりに精出しているイメージなんですけどね。