「名古屋で学会の研究会があったので、寄らせていただきました。」
「その歳で研究とは立派なことね。」
「いえいえ、ヘンリー・D・ソローの思想は歳をとってからの方が理解が進むように思えます。」
「彼は十九世紀アメリカの人でしょう? 何が本職なのかしら。」
「詩人・エッセイスト・教師・旅行家・社会活動家・エコロジストなどが彼のレッテルです。総称して「思想家」といわれています。」
「今は「哲学者」と呼ばれることもあるそうね?」
「はい、「思想家」と「哲学者」との違いはよくわかりませんが。アメリカの哲学史では、いまだに、ソローの名前は出てこないそうです。」
「なぜかしら?」
「難しい問題です。私自身もソローを哲学者と呼ぶにはためらいを感じます。」
「どうして?」
「哲学といえば、プラトンにしてもヘーゲルにしてもサルトルにしても、きらきら輝く言葉の断片が有名ですが、それでその哲学者の思想の全体が表わされるとは思わないのです。サルトルを引けば、「私とは、あなた(相手)に見られている存在です。」という言葉があります。確かにその通りですが、そういうあなたも私に見られている存在であり、それを連結すると、「私とは、私に見られているあなたに見返されている存在です。」となり、議論は無限ループに陥ります。哲学はそのような言葉の遊びに堕す危険性をたえず孕んでいるように思います。」
「なるほどね。」
「ここに、ソローの著作から断片を編んだ本があります。『ソロー語録』(岩佐伸治編訳)です。名古屋に来る新幹線で読んだのですが、これを読むと、ソローの哲学者ぶりを表現する「箴言」が数多くあることがわかります。でも、ある言葉の正反対の箴言が別の個所に存在することも多いのです。つまり、ソローの思想を理解するためには、『ウォールデン』や『日記』を通して読まなければ、その真髄をつかまえられないと思うのです。哲学者という呼称はソロー理解の妨げになりかねない、と感じています。」
「でも、ソローを哲学者と呼ぶ人たちは、ソローの中に観念的な哲学ではなく、生活に直結する哲学を見出しているのではないの?」
「はい、その通りです。わが国では、鶴見俊輔が開拓した分野です。生活の営みの中に、人生の奥儀が秘められているということを、ソローはやや難しい言葉で表わしました。むしろ、ソローの哲学を理解させる原動力になったのは、ウォールデン湖畔に掘立小屋を建てて移り住んだ行動であったといえるでしょう。」
「彼の『ウォールデン』には、自然の移り変わりの記述のほかにも、経済などの記述もあるのが特徴でしょ。」
「はい、日々の営みにも哲学があるという考えを自然に表出しているのが『ウォールデン』です。その考えは、わが国の北村透谷の『人生に相渉るとは何の謂いぞ』にも共通するものです。」
「なるほど。それだったら、『ソローと北村透谷との関連を鶴見俊輔風に読み解く』というような論文にまとめたらいいのに。」
「いえいえ、私には。」 (2012/11)