この街には、当時陸軍や行政、商業、工業など主要な事業に2万人近い日本人が携わっていた。
8月敗戦のとき、ソ連の侵攻で北から逃げてきた日本人は、この咸興の街に1万人近く居た。
住む家はなく、倉庫や神社、お寺に大勢が生活していた。
ソ連軍が進駐する前後にできた「北朝鮮人民委員会」が、日本人を追い出し、
道庁や府庁を支配した。
日本人の会社に、朝鮮人が社長や所長となって乗り込んできた。当然のように、
官舎や社宅から日本人を追い出して、彼らが住んだ。
この街の陸軍官舎はソ連軍の将校の宿舎となった。畳は外に放り出され、
庭の木は切られ、改装する大工さんは大忙しであった。
夕暮れに通ると、ロシアダンスやコーラスを唄う様が、塀の間から見えた。
9月に入ると、村や町から追われた日本人がこの街に来たが、
住むことは容易ではなかった。日を追うごとに道端で寝泊りする者を見かけるようになった。
その頃に、「日本人世話会」ができた。困窮した者を救済するため、住居の斡旋や仕事の
紹介などをした。町内会長や方面委員(今の民生委員)が中心になって活動したようだ。
ソ連軍や北朝鮮人民政府との交渉や、引揚げについても、大きな役割を果たした。
私たちは、町内会長で方面委員でもあった野尻さんにお世話になった。
父は連絡役として、たびたび会合に出かけていた。
私は簡単な用事で行かされたが、高齢で腰痛のある野尻さんに頼まれて、
世話会の本部に行くのは楽しかった。それは、同じ用で来ている友達と会えるからであった。
同級の渡邊君から、元陸軍官舎に入っているソ連軍の将校の家に、薪割りや子守に
行ったときの話しで、
行くとすぐに黒パンが出て「ここで食べろ」と腹いっぱい食べさしてくれるが、
食べずに持って帰ると叱られ、仕事が終わるとお金をくれるとか、
太った女は優しいし、青い目の子どもは可愛いよと、楽しげに話すのを聞いていた。
官舎や社宅を追い出された人は、住むところに困っていた。
世話会では、各自宅の部屋をその人達に貸すための調査と斡旋があった。
我が家でも、街から少し離れていても良ければと、受け入れるここにした。
そして9月の残暑厳しい頃に来た冬野さん(仮名)が事件になるのである。