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迷える羊の一代記 16 日本人の生活 ① 日本人世話会

2011-08-11 02:57:51 | 日記・エッセイ・コラム

 この街には、当時陸軍や行政、商業、工業など主要な事業に2万人近い日本人が携わっていた。

 8月敗戦のとき、ソ連の侵攻で北から逃げてきた日本人は、この咸興の街に1万人近く居た。

   住む家はなく、倉庫や神社、お寺に大勢が生活していた。

 ソ連軍が進駐する前後にできた「北朝鮮人民委員会」が、日本人を追い出し、

   道庁や府庁を支配した。 

 日本人の会社に、朝鮮人が社長や所長となって乗り込んできた。当然のように、

   官舎や社宅から日本人を追い出して、彼らが住んだ。

 この街の陸軍官舎はソ連軍の将校の宿舎となった。畳は外に放り出され、

  庭の木は切られ、改装する大工さんは大忙しであった。

 夕暮れに通ると、ロシアダンスやコーラスを唄う様が、塀の間から見えた。

 9月に入ると、村や町から追われた日本人がこの街に来たが、

 住むことは容易ではなかった。日を追うごとに道端で寝泊りする者を見かけるようになった。

 その頃に、「日本人世話会」ができた。困窮した者を救済するため、住居の斡旋や仕事の

  紹介などをした。町内会長や方面委員(今の民生委員)が中心になって活動したようだ。

  ソ連軍や北朝鮮人民政府との交渉や、引揚げについても、大きな役割を果たした。

 私たちは、町内会長で方面委員でもあった野尻さんにお世話になった。

   父は連絡役として、たびたび会合に出かけていた。

  私は簡単な用事で行かされたが、高齢で腰痛のある野尻さんに頼まれて、

  世話会の本部に行くのは楽しかった。それは、同じ用で来ている友達と会えるからであった。

 同級の渡邊君から、元陸軍官舎に入っているソ連軍の将校の家に、薪割りや子守に

 行ったときの話しで、

   行くとすぐに黒パンが出て「ここで食べろ」と腹いっぱい食べさしてくれるが、

   食べずに持って帰ると叱られ、仕事が終わるとお金をくれるとか、

   太った女は優しいし、青い目の子どもは可愛いよと、楽しげに話すのを聞いていた。

 官舎や社宅を追い出された人は、住むところに困っていた。

  世話会では、各自宅の部屋をその人達に貸すための調査と斡旋があった。

 我が家でも、街から少し離れていても良ければと、受け入れるここにした。

   そして9月の残暑厳しい頃に来た冬野さん(仮名)が事件になるのである。

  


光陰矢の如し

2011-08-09 12:16:10 | 日記・エッセイ・コラム

 1ヶ月以上もブログを書いてない 

   暑さが続くと植物の生育が早まるので、仕事が前倒しとなるが、

    何とかこなしているのは、雨に妨げられることがないからだろう。

   所用の合間を縫ってこなしたと思っても、ひとつ二つは抜けている。

   まだふた月もあると思っていたのに、過ぎた時の短さはどうだろう、アッという間だ!

    人の一生なんて、そんなものだろう。 明日があるだろうと想うから今が生きられる