九運久運の筑波山彷徨録

筑波山や近くの公園を気息奄々の足取りで歩いた備忘帳

県民の日・土浦城址を歩く

2012年11月20日 | ぷらっと・名所旧跡
先週の火曜日 11月13日、土浦城址公園を歩いて来ました。
土浦市立博物館の第二駐車場に車を停め、城址公園を周回しました。

私の住む土浦市のほぼ中心市街地にある城址公園です。
以前の土浦市は県南の中心的商工業都市として栄えた街で、
街のメーンストリートにはデパート・商店街・映画館などが建ち並び、
人や車の往来が非常に多い活気ある街でした。
現在はつくば市に県南の中心が移り、少し寂しい街並みになっていますが、
それでも城下町の雰囲気が市内の各所に残っている場所で、
落着いた雰囲気を感じる街になっています。



土浦城址。




土浦駅前からの通り沿いにある門をくぐり本丸跡に入りました。





本丸跡広場。
築城説も色々ありますが、平将門伝説は余りにもかけ離れており、
地方の豪族・若泉三郎の説が成る程!と頷けるように思います。
歴史物は苦手な為、いつも「○○資料を参考にして下さい」と書き込みますが、
地元の城址なので少し書き込みをしなくてはと思います!

私が知る土浦城の歴史とは、永正十三年(1516)に若泉五郎右衛門が
小田氏の武将・菅谷氏に土浦城にて滅ぼされたと云う伝記から読み取り、
最初の築城は若泉五郎右衛門の先代「若泉三郎」と云う事になると推測された様です。
その後の城主は菅谷氏となり、(菅谷勝貞から菅谷範政まで)天正十八年の豊臣秀吉の
天下統一の時代に、菅谷氏は去り、新たに結城秀康所領となり、
土浦城は結城氏の支城となったと云います。
その後は御存じの天下分け目の関ヶ原の勝者・徳川家康の時代になり江戸時代の初期を迎え
土浦城も慶長六年(1601)下総・布川から転封してきた松平信一が
近世大名としてスタートします。以降、松平信一の養子・松平信吉から西尾忠永・西尾忠照・
朽木稙綱・朽木稙昌・土屋数直・土屋政直・松平信興と変わり、その後、
土屋政直(大阪城代や京都所司代を務めた人)が駿河田中から
カンバックし城主の座に着くと土屋政直から陳直・篤直・寿直・泰直・英直・寛直・
彦直・寅直・挙直と土屋家初代・数直から数えて十一代続く九万五千石の大大名になりました。
その中でも土屋政直が32年の在職期間と、土屋篤直が42年の在職期間に土浦城を
整備した功績が大きいと云われ、今語り継がれている土浦城が完成されたようです。
最後の城主・土屋挙直は水戸・徳川斉昭の十七男で土屋寅直の養子から城主になり、
明治維新を迎えたと云います。土屋家の受領名も土屋政直と同じ相模守が
代々続いているのかと思いきや、大和守・但馬守・能登守なと色々な
受領名が書かれています。




  
本丸跡広場を中心に「東櫓」「西櫓」「「太鼓櫓」の建造物が並びます。
東日本大震災で大きな被害を受け、今年の夏に修復工事が終わったばかりです。





二の丸跡広場には当時を偲ぶ風景が残っています。




前川口門。
二の丸に入る二之門の跡に昭和五十六年に移設された高麗門です。




  
城址公園を囲むように水堀がめぐらされています。
当時から城郭は水堀が五重にめぐらされ、水城、浮城とした城であり、
上から眺めると水に浮ぶ亀のように城郭がみえた為「亀城」の別称もあります。
土地柄も東に霞ヶ浦を控え、近くには桜川が流れるような低地の為、
水で城を守る構想が生まれた場所なのでしょうか。
私達も若い頃から「亀城」「亀城公園」と云う呼び名に慣れ親しんでいます。




 
城址公園西に建つ土浦市立博物館。
丁度、第34回企画展「亀城公園のひみつ」ーお城から公園へーが
開催中でしたので、勉強がてら見学をしました。
展示内容も、
Ⅰ章・土浦に城があった頃ー江戸時代の土浦城ー
Ⅱ章・城から役所へー引き継がれる城址ー
Ⅲ章・役所から公園へー「亀城公園」の整備ー
Ⅳ章・亀城公園としての現在ー文化遺産を守るー
参考展示・亀城公園を散策してみませんか? 等々と
見所が多い展示会でした。
この時は丁度「茨城県民の日」にあたり博物館の入場が無料でした。



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