九運久運の筑波山彷徨録

筑波山や近くの公園を気息奄々の足取りで歩いた備忘帳

下野関東ふれあいの道と晃石山

2014年08月03日 | 栃木県の山

先週、7月30日(水)栃木市にある晃石山を歩いて来ました。
周辺が「大平山県立自然公園」になっている地域にある山です。

自宅から信号の多いつくば市内を抜け、常総市から国道294号線を走り、
筑西市内で国道50号線に左折し、結城から小山市内を走りました。
地図上では小山から国道50号線を外れ、大平山方面に行く道が載っていますが、
土地勘が無く道順が好く判らずに、国道50号線から岩舟町まで行き、県道11号線から
登山口と決めた、清水寺に向かいました。
途中、JR両毛線の高架橋を越え、かかしの里手前を曲がるまでは
快適な道が出来ていましたが、清水寺の看板を見て右折してから駐車場までの間は、
「対向車が来たらどうしよう!」と思える細い道でした。

行程は、

清水寺前・駐車場(9:25)- 関東ふれあいの道・東山道を歩く - 大中寺(10:05) - ぐみの木峠 -

パラグライダースタート点 - 晃石山・頂上(11:20)- 晃石神社 - 青入山 - 桜峠 -

清水寺前・駐車場(12:40)の道程でした。


 
7台が並ぶ駐車場の中央に停め、着替えを済ませ、歩き出しました。
停めた駐車場から道路挟んだ所にもトイレ完備の駐車場がありました。
早くも下山してきた男性に、関東ふれあいの道から大中寺の道状況を
たずねましたが、親切丁寧にこと細かく教えて戴き、スタートできました。




 
ここから関東ふれあいの道に入りました。





  
歴史を感じる関東ふれあいの道「東山道」です。






道途中には「フォレストアドベンチャーおおひら」の看板が立つ施設がありました。





 
こんな道を歩き舗装された一般道にでます、一般道に出る間にも道標が各所に立ち、
迷わずに歩けました。





 

 

  
大中寺。
石柱を眺め石段の参道を歩き、山門をくぐり、地蔵堂を右にみて、
正面右側から廻り込むように歩き、本堂に参拝しました。
「大中寺の由来」には
「大中寺は久寿年間(1154)開創され、はじめ真言宗の
 寺であったが、荒廃していたのを延徳元年(1489)快庵妙慶
 禅師が曹洞宗の寺として再興され今日に至っているものである。
 上杉謙信がこの寺に縁故のあった関係から、当時焼失していた七堂
 伽藍(寺のいろいろな建物)を上杉氏が寄進、また上杉・北条の両氏
 がこの寺で和を結んだことも有名な史実である。
  江戸時代、九世柏堂和尚は、徳川家康の信任厚く寺領百石の御朱印を
 賜ったほか山林の寄進も受けその後、江戸末期まで、この寺は
 天下の曹洞宗寺院の管理に当たる三つの寺院(これを関三刹という)
 の筆頭の寺として天下に号令する地位にあった。
  十一世宗演和尚の頃には幕府から曹洞宗天下大僧録に任ぜ
 られ太平山大中禅官寺と号した、江戸品川に天暁院という宿所
 を置いて事務をとり、宮中に参内して禅師号を賜っていた。
  なお、この寺の縁起は、今昔物語などの青頭巾の
 話として名高く、境内にある七不思議の伝説もまた
 広く知られているところである。」と書かれていました。

この由来に書かれている「七不思議」は随想舎発行の「島遼伍・下野寺社歴訪記」に
詳しく書かれ「根なし藤」「油坂」「枕返し」「不断釜」「馬影の井戸」
「不開の雪隠」「東山のひとつ拍子木」と七つの伝説構成になっています。
(このような伝説話しは好きです)






大中寺周辺は広い自然公園となっていて、寺周辺だけでも楽しめる様に
休憩四阿や散策路が出来ていました。ここから寺左側に廻り込み、墓地を見ながら
ぐみの木峠にスタートです。






なだらかな道と思いきや岩がゴロゴロとする急な道でした。





ぐみの木峠。
 こちらは太平山神社側です。

 こちらが此れから歩く晃石山側です。




  
急な岩場を上ると開けた場所に着きました。木に縛りつけたあった温度計は26℃でした。




 
パラグライダースタート点です。ここも東側が開けた展望が良い場所でした。
風も無く暑い山歩きでしたが、ここに立った時は涼しい風が吹き、気持ちがホッとしました。




  

  


晃石山・頂上。
ベンチがあり休憩には最適な頂上でした。
展望も西側から北西側が開け、麓も良く見え、気持ちの良い場所でした。




 

  
晃石神社。
ここも休憩には良いスペースでした。
女性グループ4名が、テーブルに御馳走を広げ食事中でした。
神社の周りにはアキノタムラソウ・オオバギボウシ・ヤマユリが群生するように咲いていました。
本来のルートですと晃石神社から晃石山頂上に歩くようですが、私は判らずに頂上に直登してしまい、
神社が後になってしまいました。




 
晃石神社からも急な下りが続きますが、気持ちの良い風も吹いてくれました。




地図には無い「青入山」です。立派な道標が立っていました。





ここも立派な手すりが付いていました。道は急な階段状になっていました。
私は手すりに捕まりながら歩きましたが、並んで歩いていたご夫婦の方は
山側に付いている道を下りて行きました。




 
桜峠。
四阿がある広いスペースの峠でした。
四阿では地元のグループの方達が食事中でした。




 
なだらかな道を下ります。
ここを下りると舗装された道路(林道?)が見えてきました。
道路脇には「桜峠」の道標が立っていました。





無事到着しました。昼飯も食べずに3時間チョットの山歩きでした。
駐車場の車の台数が多いことも少し驚きでした。
着替えをしようと車を開けた時には、余りの暑さに汗がふきだし、
少し離れた木陰に移動して着替えを済ませました。




  
清水寺。着替えを済ませ改めてお詣りをしました。石段を上り、本堂で二重縁のお賽銭を入れ
ブツブツとお願いごとをしてきました。
この周辺も公園の様になっており、上の方にある十三仏や観音堂周辺を散策出来るようになっていました。
また清水寺は「下野三十三番観音霊場」「東国花の寺・百ケ寺」に選定され花の寺でもありました。
本堂脇にあった仏足石の案内板には「健康維持には神仏の御加護とあなた自身の努力が大切です」と
書かれていました。

 
十三仏は私の生まれ年の守り本尊(千手観世音菩薩)に神妙に手を合わせました。

 
高台にある観音堂は県の指定文化財が納められています。

この清水寺の由緒も
「大同年間(806年頃)国司報恩のため堂塔・坊舎を新築し、金滝山大聖院清水寺と号した。
 天慶十年(947)藤原秀郷は平将門を討伐した際、祈誓報恩のため堂塔を再建したが
 治承四年(1180)兵火により堂塔全てを焼失してしまった。
 その後七十余年を経て、群馬県新田郡長楽寺「栄朝禅師」が寺院跡地の煙減を歎いて
 小堂宇を建てたが、天正十二年(1584)またもや兵火によって焼失してしまった。
 天下は徳川の時世に入り、慶安二年(1649)家光公より観音堂領として御朱印十石の
 寄進を賜り、時の住職「亮圓師」(中興第一世)によって堂塔が再興された。
 天明二年(1782)輪王寺一品親王の台命により東叡山寛永寺の末寺となったが、
 明治時代になつて比叡山延暦寺の末寺となる。
 昭和三十二年初春、飛び火により本堂・薬師堂を焼失したが、裏山にある観音堂 
 (文化の御代建立)は火災を免れた。
 昭和の末より清水寺憩いの森として境内が整備され、ぼたんやつつじを始め各種の
 草花が植栽され、例年多くの参拝者や観光客で賑わっている。
 現在の本堂及び会館は、二年余りの歳月をかけ建立され、平成七年十月に落慶式が
 挙行された」と書かれていました。


 
境内の散策に疲れ、四阿風の休憩舎で少し休憩をしました。
停めた駐車場の上側にあるため、涼しく感じるかな?と思いましたが、この場所も暑かった。














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