先日6月5日に開催された「広島市子ども条例」緊急集会で、ある講師は、「子供」をなぜ「子ども」と表記するのか疑問にもち、「供」は、「そなえ」として神仏などにそなえささげることではなく、辞書にあるとおり、子の複数形としての「供」であると指摘しました。
講師が指摘した以外に、「子ども」と表記する理由として、「友達」の」だち」も「子供」の「供」も、いづれも人の複数形を表す副助詞ですが、「だち」は「友達」や古語の「公達(きんだち)」を始め同僚を表す副助詞に対して、「ども」は「こいつらどもが・・」のように集団を卑下して表すときに使う副助詞であり、「子供」の表記は差別的だというのです。
また、助詞は平仮名で書くべきルールに従い、副助詞である「ども」も平仮名で書くべきであるという主張もあります。
しかし、現在、私たちは、「子供」は一つの熟語としてとらえており、「子」と「ども」に分けて議論する必要はなく、仮に「子供」が差別的であるにしても、それを平仮名書きにしたならば差別的でなくなるという理由は不明です。
むしろ、「子ども」を漢字と平仮名に分かち書きにすることによって、かえって「ども」という副助詞が目立つことになり、単複同数形の名詞である「友達」同様、「子供」という言葉に熟語化したと考えた方がいいとの考えもあります。
いずれにしても、地元新聞社などが「子ども」が一般に用いているとしも、国が定めた常用漢字表の「供」の用例に「子供」とある以上、、国法の下に地方自治体が条例を作成するうえで、「子供」を用いるのが公用文としてのルールではないでしょうか。
※「児童の権利に関する条約」を広島市条例においては、「児童」をあえて「子ども」と表記しています。
講師が指摘した以外に、「子ども」と表記する理由として、「友達」の」だち」も「子供」の「供」も、いづれも人の複数形を表す副助詞ですが、「だち」は「友達」や古語の「公達(きんだち)」を始め同僚を表す副助詞に対して、「ども」は「こいつらどもが・・」のように集団を卑下して表すときに使う副助詞であり、「子供」の表記は差別的だというのです。
また、助詞は平仮名で書くべきルールに従い、副助詞である「ども」も平仮名で書くべきであるという主張もあります。
しかし、現在、私たちは、「子供」は一つの熟語としてとらえており、「子」と「ども」に分けて議論する必要はなく、仮に「子供」が差別的であるにしても、それを平仮名書きにしたならば差別的でなくなるという理由は不明です。
むしろ、「子ども」を漢字と平仮名に分かち書きにすることによって、かえって「ども」という副助詞が目立つことになり、単複同数形の名詞である「友達」同様、「子供」という言葉に熟語化したと考えた方がいいとの考えもあります。
いずれにしても、地元新聞社などが「子ども」が一般に用いているとしも、国が定めた常用漢字表の「供」の用例に「子供」とある以上、、国法の下に地方自治体が条例を作成するうえで、「子供」を用いるのが公用文としてのルールではないでしょうか。
※「児童の権利に関する条約」を広島市条例においては、「児童」をあえて「子ども」と表記しています。