た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

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2016年07月20日 | 断片

 白い靄の立ちこめる朝であった。彼は目覚めてすぐに目覚めたことを悔やんだが、もうどうしても眠りに就くことはできそうになかった。

 森の奥に湧く泉のように、彼の頭脳はさえざえとしていた。彼は今日自分が何をなすべきか、まるでわかっていた。

 目を開いて天井を見つめる。小学五年生の冬から六年余り、毎日見つめ続けてきた天井である。歪んだ顔の老人が鼻を擦りながら泣いているように見える木目が、あちこちに繰り返されている。それが偽りの木目だということは、彼の両親が交通事故で亡くなり、県境をまたいだ叔父夫婦の家に引き取られ、この部屋に寝かされた晩には、十一の彼はもう気付いていた。

 枕元に手を伸ばし、手探りだけで携帯電話を掴み、鼻先に持ってきた。五時十五分。液晶画面が震えているのは彼の手のせいである。

 手が力を失って布団の上に落ちた。彼は夜明けに対し最後の抵抗を試みるかのように強く目を閉じたが、瞼は痙攣を起こしたように震えた。彼はすぐにまた目を見開かざるをえなかった。

 彫りの深い顔つきである。眼の下に二重のような切れ込みがあるので、目を見開くと実際以上に大きく見える。この街に引っ越した小学五年生当時、クラスで「メガネザル」とあだ名された。担任の男の先生が転入生をあだ名で苛めないようにと「メガネザル」禁句令を発令し、以来高校三年の現在に至るまでそう呼ばれることはなくなったが、彼は今でも心の中で、自分に一番ふさわしいあだ名だと密かに思っている。

 彼はむくりと起き上がり、窓辺に行ってカーテンを開いた。

 すでに日は出ている時刻だが、靄が深くて何も見えない。靄がなければ、隣の家の古い瓦屋根と、伸びすぎた柿の木と、そのはるか向こうにはバターを一匙延ばしたような山並みが、曙光に照らされてそれなりに心落ち着く風景として広がって見えるはずである。 

  だが今は、隣の家の輪郭がやっとつかめる程度であった。彼はガラス窓に手をかけ、音を立てないようにそっと開けた。まるで、この二階の部屋から外に出て、靄の中を歩こうとするかのように。しかし、思いの外冷たい湿気が彼を襲い、彼はしかめ面をして窓をすぐに締め直した。ガタンと音が立ったことを、彼はひどく後悔した。

 彼はふいに耐え切れなくなり、その場にしゃがみ込んだ。嗚咽を漏らす。髪をくしゃくしゃに掻き毟る。彼自身が一個の濡れた紙屑のように、畳の上に崩れ落ちた。

  叔父を殺す。必要となれば、叔母も殺す

 それから二時間ほどして、彼は階下に降りてきた。

 一階の食堂では、彼の叔父と叔母が朝食を食べていた。食べると言っても、叔父は新聞を広げてコーヒーとバター付きの食パンを冷めるに任せていたし、叔母はダイエットと称してリンゴを剥いていた。リンゴがバナナの時もあれば、オレンジの時もある。いつもの見慣れた光景であった。痩せて首筋が古木の根元のように突っ張っている叔父。軟球を縦に少しだけ押し潰したような顔立ちで、眼鏡の下に薄い鼻髭を蓄えている。対照的に、両肩から重圧を受けて始終肩身が狭そうな面持ちの叔母。ダイエットの必要を感じさせない細面である。  

 二人はもの静かに、何気ない風を装いながら、しかしそれとわかるほど神経質に、甥を迎え入れた。

 

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