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『国語』私論

2017年12月06日 | essay

 国語とは何なのか。

 妙な疑問であると言えるが、長年私の頭の隅を離れない疑問である。

 国語とは、もちろん、学校で教科として教えられる国語のことである。

 先日、新聞に大学入試改革の一環として、国語の新テストの試行問題が載っていた。法律や規約の文言と照らし合わせて、会話における話し手たちの判断が適正かどうかを問う内容である。資料と会話を読み取り、正確に分析し、主張の妥当性や課題を理解する能力が求められる。近年そういった資料問題を出す傾向は、大学入試のみならず高校入試まで浸透してきている。今後この風潮は拡大する一方であろう。確かにこういった問題が解ければ、将来社会に出たとき、職場で統計資料を読み解いたり、議事録を作ったり、法律問題に強くなったりと、多様な場面で効力を発揮するだろう。実践力、即戦力としての学力がつくのは間違いあるまい。

 だが、改めて思う。国語とは、何なのか。

 先述した資料と生徒たちの会話からなる問題を読んでまっさきに思うのは、面白くない、ということである。無味乾燥な役所言葉で書かれた資料はもちろん、生徒たちの会話も、誰がどれだけの推敲を重ねて作成したか知らないが、当たり障りのない模範的なやり取りで、全然面白くない。面白くないというのはつまり、日本語の魅力を感じ取ることができない。

 どんな難しいことを述べた評論でも、小説でも、それなりの学者や大家が書いたものは、読んでいて面白い。そういう類の国語の問題は、重厚な造りの文化遺産を思わせる。たとえ筆者の言っていることがちんぷんかんぷんでも、問題を丸で解けなくても、何とかこれを理解したい、という魅力を感じさせるものがそこにはある。何度も噛み締めてみて初めて感じる味わいがある。こんな日本語を自分も駆使できるようになりたい、という願望すら抱かせる。国語という教科の主目的は、何より、美しい日本語の魅力に気づかせ、興味を持たせることではなかろうか。社会的実践力には直接結びつかなくてもいい。文章によって魂を揺さぶられる、それによってより知的な深みに入りこもうという気にさせる、その動機づけが何より国語という科目の持つ本分ではなかろうか。

 その点でいくと、最近の国語の問題は、解いてしまえば二度と読み返したくない代物が多い気がしてならない。子どもたちの中には、国語の問題を解くのが、高等な日本語に触れるほとんど最初で最後の機会になる場合だってある。そんなケースを考慮すべきか否かという議論はともかく、国語の問題は、日本語の持つ奥深い知的領域を彼らに垣間見せる窓口である。それが果たして、「A君の言っていることは資料のどの部分を踏まえていないとB君は指摘しているか」といったものでいいのだろうかと、首を捻ってしまう。

 国語とは何か。明確な答えや指針が私にあるわけではない。ただ、今こそ、国民レベルでもっとその議論を活発にすべきときではなかろうか。

 少なくとも、国語が、本離れを加速させるものであってはならない。

 

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