おっさんノングラータ

会社帰りに至福を求めて

光の六つのしるし(25点)

2007年12月25日 | 映画2007
映画化に向かないファンタジー小説を無理矢理やっちゃいました
IMDb(4.6/10)

ファンタジー小説の映画化が引きも切らないが、『光の六つのしるし』は完全な失敗作。原作の魅力を見事なまでにスポイルしており、アメリカ人はハンバーガーを食ってコーラでも飲んでろ剣と魔法とモンスターが出てこないとファンタジーじゃないと言うRPG脳もすっこんでろ

スーザン・クーパーの原作小説は光と闇との戦いを描いたものだが、光と闇の軍勢がドンパチする話ではないのだ。


原作は60年代のイギリス農村部が舞台だが、映画は現代、アメリカで暮らしていたスタントン一家がイギリスへ引っ越してくる。生活は豊かではないが家族愛に満ちた大家族の筈が、両親は日々の生活で磨耗しているように見えるし、兄弟はそろって馬鹿だ。大好きな家族に自分の正体を隠して行動するところがポイントの一つなのに、さっさと家から出たいと思わせる環境にしてどうする? おまけに父親は『光と闇』と題された論文を書いたり、しかも書いただけで意味はないし、6番目の息子トムは誘拐されたりと、頭の悪い改変のオンパレードが続く。

最悪なのは古老の扱い。預言者マーリンのこの世界の姿であるメリマンは怒りっぱなしの老人に過ぎないし、ドーソンにジョージがクロスボウや剣で武装するなんて、悪夢以外の何ものでもない。原作でも光と闇は戦うが、物理的に両者がやり合うわけではない。

そのせいか光と闇の間で揺れ動く「旅人」の存在がカットされた。ウィルの考え方にも大きな影響を与え、「光」の非情さを象徴するエピソードでもあったのに、である。代わりに魔女がクローズ・アップされているが、それなら「旅人」が果たした役割を担わせればいいものを、色仕掛けで終わっている。

闇代表の「騎手」もまた、扱いがひどい。何で白馬に乗ってるの? ビジュアル・イメージに違和感が生じるだけで、どうして原作通り黒馬にしなかったのか理解に苦しむ。

また時間移動が頻繁に行われ、映画ではさながらタイム・トラベルのように描かれるが、原作では古老は時間の埒外に生きる存在であり、時間軸を移動するわけではない。妹を連れて時間旅行させるなど、原作を読んでいないとしか考えられない。


原作は「七男坊の七男坊は千里眼を持つ」など、イギリスの伝承やアーサー王伝説を下敷きに書かれた小説であり、スーザン・クーパーがそれらのエピソードを巧く紡ぎ合わせて独自の世界観を構築している。それらを知っていたほうが理解が深まるが、知らなくても十分に楽しめる内容である。

映画ではウィルが闇の勢力を滅ぼしてしまったように描かれたが、彼は「探索者」に過ぎない。原作で「騎手」を撃退したのは「狩人」である。それに「しるし」が唯一のアイテムというわけではなく、「聖杯」や「聖剣」が登場し、別の子供たちが探索するのだ。


頭の中であれこれ考えながら読み進めるのが楽しいタイプの小説を、無理矢理ハリウッドの文法で解釈したために、このような悲劇を招いたということになるだろう。

このシリーズは普通の兄妹がアーサー王伝説に関係する聖杯を探し出す『コーンウォールの聖杯』から始まっている。そもそも剣も魔法もモンスターも登場しないこの小説を面白く映画化する自信がないのなら、最初から手を出すべきではなかったのかも知れない。

(評価は100点満点です)
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補遺:
「闇の戦いシリーズ」を映画化するのであれば、2作目である『みどりの妖婆 』からにすべきではなかったか、とが言っていた。ビジュアル的に派手だし、『コーンウォールの聖杯』の兄妹にウィルを加えた4人の冒険で、興味を惹くエピソードも多い。そこでシリーズの面白さを担保しておいてから、過去に戻って『光の六つのしるし』と『コーンウォールの聖杯』に戻るという構成である。

気のせいかも知れないが、訳文も1作目より2作目のほうがこなれており、読みやすくなっている。

「闇の戦い」シリーズその他:
灰色の王 (fantasy classics 闇の戦い 3)
樹上の銀 (fantasy classics 闇の戦い 4)


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