岩瀧山 往生院六萬寺のブログ

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「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

2023年07月26日 | 往生院六萬寺 縁起
「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料









岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

「 焼香の意義について 」

現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。

昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。

特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の御本尊へのお参りやお墓へのお参り、お仏壇での供養においても、焼香(線香)、または灯明のお供えがその主なものとなっています。

では、実際に「焼香」の供養とは何か、と聞かれても、あまり理解している方も少ないのではないかと思い、今回、私見も交えながら、いくつかその由来について考えてみたいと思います。

一、場と自分の清め

おおよそ、世間一般、仏教一般としての「焼香」の用例としては、まず「清め」ということのためとなります。どうして焼香で清めとするのかということは、仏教の始まりとなるお釈迦様の時代に、その由来が遡ることになります。

お釈迦様の時代のインドは、当然に日本よりか南に位置しているところ(緯度的に主に活動された王舎城付近は台湾のあたりとなりますでしょうか)にありますから、気候は高温多湿であり、そのような中での生活では、様々な「臭い」もある程度、きつくあったことが想像できます。

そのような中、説法会においては、大勢の人が集まって、お釈迦様の説法を聴くことになります。当然に、人もひしめき合い、色々な「臭い」が更にきつくなるわけです。わざわざ精舎からお出まし頂いて、尊い法をお説き下さるお釈迦様には大変に失礼なことになると考えるわけです。

そこで、その場のきつい「臭い」を和らげて、心地よい香りにて、お迎えし、説法を有り難く頂戴するということで、良い香りを焚き、その場を「清める」ものとして、ある意味で、尊い、高貴な方を迎える作法、習慣として「焼香」が始まったと言えるのであります。

そして、良い香りは、人の心を落ち着かせるという、ある種のアロマテラピー的な効果もあります。普段の煩雑な生活の中で、乱れてある心を落ち着かせて、有り難く尊い教えを頂く前に、煩悩を鎮める「心の清め」としても大切なことになったと考えることができます。

以上のように、神聖となる場の清めと、清らかで尊い教えを頂くための自分の清めとして、「焼香」が習慣化していく中で、定着した供養になったのだと思われるのであります。

また、やがては、香を焚き始めるだけで、お釈迦様がそれを神通力にてお知りになられて、お迎えも来ない早々の内にお出かけになられるようになります。そのことから、焼香すると、お釈迦様にご来迎頂けるということで、如来をお迎えする、現代では、如来の教えである仏法をお迎えするというために、法要の際、読経の前にて、まず焼香を行うということになったのだと考えられます。

ですから、通夜や葬儀、法事においては、まず導師は、三拝しての焼香から作法に入ることになるのでもあります。

二、香食(こうじき)

次に、香食のために行う場合を挙げることができます。

香食とは、そのままで、「香を食べる」ということですが、誰が食べるためかと言うと、亡くなられた方の、次の世界へと生まれるまでの間の存在となります。

人は、亡くなって、肉体の機能を失うと、次の輪廻、次の生まれへと向かう意識が肉体から離れることになります(しばらくは肉体に留まることもあります)。

それは、微細な輪廻を繋ぐ意識となりますが、その意識は普段の意識、肉体に左右されるような意識とは異なっており、死と次の生を繋ぐ意識と考えると良いかとは思います。少し、私たちの概念としてある魂、霊魂とは違うのですが、まあ、似たようなものではあります。

そして、その微細な輪廻を繋ぐ意識も、実は身体を持ちます。意成身、意生身と言われるものです。その身体も7日ごとに死を迎えるとされる不安定なものですが、肉体のように目に見えるものではなく、ある種、影のようなもので、普通、私たちが捉えられるようなものではありません。それは私たちが霊、幽霊と言っているものとは、やや異なるのではありますが、おおよそ似ているとは思います。

その意成身、意生身の状態において食べれるものが、霞(かすみ)、烟(けむり)、香となるのであります。その中で、やはり美味しいものが、良い香木を燃やしての香りである「焼香」となるのであります。


意成身、意生身は、非常に不安定な存在です。その意識も大抵の場合は混乱、混濁して不安定なものとなります。この意識下において、しっかりとその先への悟り、成仏へと向かう仏道が照らされてある功徳、智慧が、今世、過去世で集積されてあるならば、自ずと次の仏道、極楽などの浄土へと安定して向かうものとなりますが、そうでなければ、やはり、不安定な状態としての中有(ちゅうう)、中陰(ちゅういん)となるのであります。

この中有・中陰の状態は、どんなに長くても49日間が最長となります。早ければ、死後すぐにでも次の往生へと向かう場合も、もちろんあります。この中有・中陰においての意成身、意生身の意識・心を安定させて、次の往生へと向けて、落ち着いて向かって頂くために、その餞として召し上がってもらうために行うのが、特に逮夜・通夜での焼香となるのであります。

もちろん、実際に歩いたり、走ったりして、次の世界、浄土へと行くわけではありませんが、お腹が減っては、集中もできず、やる気も、元気も無くなるのは、私たち生身の人間も、意成身、意生身も同じことであります。元気に次へと向かって行って頂くために、そして、清めの時と同じように、アロマテラピー的に心を落ち着けて、これから通夜、葬儀と仏の教えを聴いて、仏弟子となりて、仏道をしっかり歩めていけるように調えて頂くためにも、香を薫じるということになるのであります。通夜・葬儀における「焼香」の意義は、場の清め、自分の清めと共に、香食の意味合いも大切になるということであります。

近年、一般の方は、葬儀会館の備え付けの抹香で焼香することがほとんどとなっていますが、会館によっては、大量に消費するため、安価であったり、化学配合の多い抹香を使用している場合もあることは否めません。

故人への香食、餞別のためとして、個々人で、良い香りのする香木を持参して、焼香するのも良いのではないかと存じます。ある方は、故人が大変に愛でていた木の皮を、焼香にてお供えしたということも。きっと、さぞかし故人は喜ばれたのではないかと存じます。

このように焼香には、香食としてのお供えのあり方があるということも知って頂ければと思います。

三、雲程(うんてい)

さて、次に、焼香における大切な意味合いとして、「雲程」という考え方もあります。

雲程とは、空の一番高いところにある、青く清らかな雲、青雲を「悟り」と例えて、そこへと至る雲の道のりという言葉となります。


雲は、霞、烟と同じようなものとなります。つまり、亡くなった方を悟り、浄土へと送り、導く雲のお供えということであります。立ち上る焼香の烟が、瞬く間に悟り、浄土へと至る雲となるようにとして、清らかな真心の気持ちにてお供えするわけです。

葬儀の際における秉炬(ひんこ)佛事の前に、「山頭念誦(さんとうねんじゅ)」を読みますが、その最後の一節には、「茶、三奠(てん)を傾(かたむ)け、香、一炉に熱※(た)いて、雲程に送り奉りて、聖衆(せいしゅ)を和南(わなん)す」とあります。(※ 熱は、草かんむりがつく)

お茶を三点献じて、香を焚く、というのは、亡くなった方へ惜別の真心を表す場合と、お迎えの聖衆、つまり、来迎の如来、菩薩方へと献じるという場合の二通りが考えられますが、そのあとに「雲程に送り奉りて」とあるように、雲程へと送られる故人を送るのは、導師、喪家、会葬者となるため、亡くなった方へと向けて、お茶と香をお供えするというのが正解となるのではないかと考えます。

ちなみに、お茶を三杯献じるというのは、相手に真心の誠意を示すという意味があり、その昔に、近江・長浜で鷹狩をしていた豊臣秀吉が、休憩の際に寄った寺にて、お茶を所望した際、後の石田三成となる小姓が、一杯目に大きな茶碗にぬるま湯の茶を、二杯目には、ややそれよりも小さな茶碗に少し熱い湯の茶を、そして三杯目には、更に小さな茶碗に熱い湯の茶を出し、そのことに感心した秀吉が、その小姓を召し抱えたというエピソードがあります。石田三成はおそらく、この三杯のことを仏教の故事で学んでいたのであろうと思われるのであります。

そして、香の烟に乗って、雲程(悟り・浄土)へと至れるようにとして、「香、一炉に熱いて」は、私たちが真心、誠意にて故人を送り出すための焼香と考えることができるわけであります。

ここで、最後の「和南(わなん)す」とは、如来・菩薩方を、恭(うやうや)しく称名(念仏)して、敬礼(きょうらい)する、という意味となります。つまり、故人の悟り・浄土への導きを深くお願い申し上げるということであります。

この場面を考えると、つまり、ご来迎で、故人をお迎えに来て下さった如来、菩薩方のお姿が想像できるわけです。ご来迎で乗って来られるのは、もちろん、「雲」となります。つまり、「香、一炉に熱いて、雲程に送り奉りて」とは、故人を浄土へと送り出す「雲」を、まさに私たちの焼香の烟にてお作り申し上げて、故人を送り出すということを示すわけでもあります。

以上のように、「焼香」にはおおよそ三つの大きな意義があると考えることができるのであります。今後の焼香の際の参考になさって頂ければと存じます。合掌

年表関連の一考集について

2023年07月26日 | 往生院六萬寺 縁起
年表とは別にて、一考集を改めました。

最新年表はこちらになります↓
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html




















本能寺の変についての一考

明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。

織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。

楠木家の子孫である楠木正虎も、書記官として信長の近くにて仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄(のぶかつ)を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。

また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌(のぶかず)は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加えることのできた意義は大きく、それもあって、いよいよ南朝の復権(南朝の後胤への天皇譲位)を恐れた朝廷が、本能寺の変の背後にあったとしても全く不思議ではない。

とすれば、光秀の本命は、信長、信忠よりも、むしろ後醍醐帝の後胤とされる信弌にあった可能性も否定できないだろう。(信弌は本能寺の変で戦死している。)

(明智家の出自となる土岐家は、南北朝時代、最初は後醍醐帝に従うも、その後は足利尊氏に従って北朝の功臣となり、美濃守護となっている。その土岐家、足利家に従ったのが明智家であり、光秀も信長の家臣ではあるものの、足利義昭の忠臣中の忠臣であり、信長の足利義昭追放後には北朝方の一番の有力者となっていた。南朝復権を恐れた朝廷が、光秀に信長討伐を密かに命じた可能性も十分に考えられるである。)



徳川家康の出自の松平家についての一考

徳川家康の出自の松平家は、元々は新田系清和源氏である世良田氏からの流れとされている。

世良田家は、新田家と共に後醍醐帝、特に宗良(むねなが)親王に仕えて各地を転戦した南朝功臣である。

津島大橋家とももちろん縁が深く、南北朝期では同志中の同志として艱難辛苦を共にしている。織田信長が松平家、徳川家康を厚遇したのも、津島大橋家と一緒で、やはり南朝功臣の子孫であったからだと推測できる。

非情だとされた信長ではあるが、よくよくに調べてみると、南朝功臣の子孫となる者たちにはかなり配慮している。

一方、北朝側の子孫へは容赦しなかった。この歴然としてある差はいたるところで現れている。

やはり、信長は南朝功臣たち子孫の勢力結集、復権への悲願を利用することにより、北朝勢力を排して、天下統一を果たそうとしたのではないかと思われるのである。

そのあともう一歩のところで、足利義昭の下で一番の幕臣であった明智光秀により討たれることになる。

その後、豊臣秀吉により天下統一は達成されるが、南朝方の復権(南朝の天皇即位)とまでは至らずであった。

秀吉の死去後、南朝功臣たち子孫は、徳川家康をその中心として、やがて豊臣政権を打倒、江戸幕府が開かれることになるのである。関ヶ原の戦いも各勢力を分析すると、まさに北朝方と南朝方との争いに綺麗に分けることができるのである。



関ケ原の戦いについての一考

関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋が本来は西軍であるべきが、東軍についたのは、後南朝の朝廷が関係していたと思われる。小早川秀秋は、木下家の出自で、秀吉の後継者の一人として豊臣家の連枝となっていた。

秀次事件によって秀吉より後継者から外されてはいたものの、秀頼の後見人と期待されると共に、当然に豊臣家を守るべきであるはずが、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家を裏切り、徳川家康につくことになった謎が、後南朝の朝廷にあったのではないかと考えられる。

後南朝後胤である小倉宮家とは、秀秋が越前(福井)・北ノ庄15万石の大名に転封になった際に、秀次事件に連座して以来、中央政権への再起を図るために、美作(みまさか)には行かずに北ノ庄に残っていた小倉宮家との関係を築き、そして、その関係から、南朝方勢力が集まっていた徳川家康にやがて従うことになったと考えることができるのである。そして、関ケ原の戦いでの論功行賞により、秀秋は、宇喜多秀家(西軍側)の改易によって岡山藩主となる。これには、既にあった小倉宮家の美作・津山の後南朝・朝廷「植月御所」を管轄、庇護するようにとの家康の裏の意図があったのではないかとも思われる。(実際に、家康、秀忠の代において、江戸幕府は美作後南朝・朝廷に対して2万石を扶持している。関ヶ原の戦いにおける南朝勢力結集へのお礼、対価であると考えることができる。)

秀秋の死去後、秀秋に跡継ぎがなかったため、無嗣改易となり、その後は、やはり南朝方と言える織田信長の家臣として活躍した森可成(よしなり)(森家は清和源氏の流れ)の子・森忠政が、美作・津山藩主となり、後南朝・朝廷を安堵している。同族の森家は、南北朝時代には細川清氏(北朝方から南朝方となった)に仕えて南朝方として戦っている。(岡山藩主は、池田光政。摂津池田家は楠木家と共に北朝と戦った南朝功臣である。足利尊氏に帰順後も南朝方として、特に楠木正行の遺児・教正を匿って育てたとされている。)森可成は、土岐家、斎藤家、織田家と従った戦国武将。森可成の兄弟には本能寺の変で信長と共に死去した森蘭丸がいる。その後、津山藩・森家は四代にわたり後南朝・美作の朝廷を庇護するものの、やがて幕府により意図的に森家が改易されると共に、美作の朝廷は廃絶されることになる。(1697年、幕府による良懐(かねよし)親王の親王号の剥奪。)



後南朝についての一考

南北朝の統一としての「明徳の和約」が破られると、後南朝勢力が南帝を擁立して蜂起することが度々に起こる。

北畠満雅(みつまさ)による後亀山上皇とその皇子・小倉宮恒敦を擁立しての挙兵(和睦)、恒敦の子・小倉宮聖承を擁立しての挙兵(伊勢守護・土岐持頼により鎮圧)、その後も、河内での楠木家による挙兵(畠山持国により鎮圧)、源尊秀によって南朝皇胤とされる通蔵主・金蔵主兄弟を擁立しての「禁闕(きんけつ)の変」(鎮圧)、同じく南朝の皇胤であるとされる自天王と忠義王が、赤松家再興を目指していた赤松家家臣たちにより討ち滅ぼされる「長禄の変」、また、後村上帝の孫である円満院門跡・円胤(説成(かねなり)親王の子)の挙兵(鎮圧)、そして、小倉宮の末裔とする者たちによる挙兵と相次ぐも、全て失敗に終わることになる。

その後、戦国時代へと向かう大きなきっかけとなる応仁の乱でも、南北朝が絡むことになり、東軍は北朝、西軍が南朝といった構図となっている。

東軍の総大将・細川勝元が、後土御門天皇・足利義政を味方としていたことに対抗して、西軍の総大将・山名宗全は、南帝(奈良・高取の壷阪寺にいたとされる小倉宮の末裔)を擁立し、南朝勢力を結集して戦いを進めていこうとする。しかし、山名宗全が死去し、東西の和議が成立すると、この西陣南帝は放逐され、越前(福井)・北ノ庄へと落ちのびることになる。

また、小倉宮家は、近江(滋賀)・甲賀を経て、山名宗全と同族で、嘉吉の乱後の赤松満祐の討伐の功績により、美作・石見守護となった山名教清(祖父の山名時氏は、新田系源氏ではあるが、足利家との姻戚関係から最初は足利尊氏に従うも、その後、足利直義に従って南朝方となる)を頼って、美作・津山へ辿り着き、吉野と同様に朝廷としての「植月御所」を立てることになる。

流れとしては、小倉宮良泰の子・高福天皇(尊義)・後南朝初代天皇→義有親王の子・興福天皇(尊雅)→尊義親王の子・忠義天皇→尊朝親王→尊光親王→尊通親王→尊純親王(青蓮院宮、1638年、天台座主になる)→高仁天皇(1626年、後水尾天皇より譲位されたとされているが、1634年に幕府により廃帝。但し、正統な天皇の系統には入っていない。

後水尾天皇の次は、その皇女・明正天皇となっている。この譲位は名目的なもので、実質的には後南朝後胤の断絶へと向けた幕府による懐柔策の一つとして意図的に行われたものであるとも思われる)→良懐(かねよし)親王(1697年、幕府により親王号剥奪。1709年、岡山・西大寺へ参詣に向かう途中で死去。暗殺されたとも。)

以後、小倉宮家は断絶されたとされるが、この小倉宮家の末裔と称する者たちが、戦後に南朝系の天皇であると何人も名乗り出ている。



美作(みまさか)後南朝についての一考

正史では、後水尾天皇の次の天皇は、明正天皇となっている。この間では朝廷と幕府において色々と揉め事が頻繁に起こっている。

高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。

一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位されて、明正天皇(女帝)がその次の天皇となっている。

明正天皇は、後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子であり、徳川家の外戚が天皇となったのである。

この間に、もしも後南朝側の天皇を幕府が意図的に即位させていたとするならば、その意図は、南朝方勢力への配慮(あるいは懐柔策)であったと言えるのかもしれません。

徳川家にとっては、南朝方功臣たち子孫の活躍によって、関ヶ原の戦いも勝利できたため、南朝方への最大級の見返りということになるわけです。南朝功臣たち子孫の悲願は、何よりも南朝方天皇の即位にあったからです。

しかし、美作後南朝史では、間もなくして高仁天皇は廃位に追い込まれています。やはり、北朝の天皇が正統であるということが、当然に朝廷・公家たちの認識であり、後水尾上皇もまだまだ健在である中で、王子も誕生していたのであるから、そんな幕府の側の事情による皇位継承などお構いなしで、南朝の高仁天皇の存在など、朝廷は微塵も認めることなどなかったと推測できるのであります。

もちろん、実質的には朝廷としての機能がそのまま京都御所にあるため、南朝の高仁天皇が美作から京都入りできていなかった以上、その譲位は、ただ、幕府によっての名目的なものであったことが容易に理解できるわけであります。そして、当然に歴代天皇、歴史上にも正式に記録が残されることはなかったのであります。

また、徳川家にとっては、その外戚となる皇女が、次の天皇となることになったため、南朝方であった松平家とはいえども断る理由などどこにもなく、早々に高仁天皇を廃するのは、むしろ歓迎されるべきことであったのかもしれません。もしくは、それが後水尾上皇との取引であったのかもしれません。高仁天皇の廃位と明正天皇の即位のバーターということです。

明正天皇の後には、後水尾上皇と藤原光子(壬生院)との男子である素鵞宮(すがのみや)が、後光明天皇として即位します。

しかし、後光明天皇は早逝し、その弟が後西天皇となり、その次には後水尾上皇のまた別の王子である霊元天皇、そして、その次には霊元天皇の子、東山天皇と、結局は、北朝方の天皇がそのまま続くことになります。当然に後南朝、小倉宮家の皇位継承は論外とされているのであります。(後南朝の宮家としては、小倉宮家の他にも、護聖院宮家、玉川宮家などが存在していた。)

やがて、五代将軍・徳川綱吉の代においては、後南朝後胤、後南朝勢力の断滅策が講じられることになり、1697年、美作・津山藩主・森家が正当な理由が見当たらないのに突然に改易処分、幕府は美作後南朝の良懐(かねよし)親王の親王号を剥奪、その後に良懐親王は暗殺されたと思われるのであります。

関ケ原の戦いで活躍した南朝方功臣の子孫たちも、代がすっかりと変わってしまい、後南朝のことなど忘れ去られつつある中、もはや南朝復権への悲願も遠い昔のことになってしまったのでしょう。

奇しくも、津山藩主・森家が改易された同時期には、青菅旗本の川口家も改易されています。同じ南朝功臣の子孫、織田家家臣の子孫という繋がり、果たして偶然といえるでしょうか。

他にも、徳川綱吉の代においては多くの外様大名・旗本が改易処分されています。南朝功臣の子孫たちの排除もその目的の一つにあったのではないでしょうか・・


日本における祟りや怨霊伝説についての一考

日本においては、祟り、怨霊伝説はたくさんあるし、絶対に立ち入ってはいけない、禁足地として現在でも残ってあるところも多くある。樹木伐採が古来より厳禁されてあるところなどもそうである。


祟り、怨霊の類は、有るのか、無いのかといえば、無いとは言えないぐらいにしか考えてはいなかったが、最近は有ると考えるようになった。

顕密共の精緻な仏教教理哲学、認識論・論理学を有するチベット仏教においてでさえも、シュクデン等、怨霊への畏敬崇拝が、時にゲルク派をも二分するほどのものとして、この現代でさえ控えている。

話は少し変わるが、近場でもよく店が変わるところがいくつかすぐに思いつく。立地条件は抜群なのに、潰れてはコロコロ店舗が変わるのである。条件は良いので店子は入るのだが、まず長くもたない。

土地の因縁に問題があるのだとピンとくる。最近は、お祓いや地鎮祭、棟上式等、祭祀を何もせずに建物を建てたり、土地を造作することも多くなっていることがあるからであろう。

また、昔の人は、村々、土地々々において、お寺、神社、地蔵堂を大事にしていたのは、祟りや怨霊から皆を守ってくれるからといった意識も強かった。

しかし、今や現代人において、そんな意識は無くなりつつある。引っ越ししたからといっても、その村の神社やお寺にまず先にお参りにいくことなども無くなってしまっているだろう。チェーン店が色々なところに店舗を開設しても、その村のお寺、神社に挨拶や祈願に行くようなことも、ほとんどないのであろう。ただ、利益・売上のために、その土地、そこの人々を利用するという感じでは仕方ないであろうが、やはりそれだけではうまくいかない。マーケティングにはまず載らないことではあるが、村々、土地々々の因縁、人々の因縁を無視してはいけないと思うのである。


更に話は脱線するが、明治維新・戊辰戦争では、薩長の北朝側と幕府の南朝側との戦いとなった。幕府の方が圧倒的に有利であったはずなのに、南朝勢力はうまくまとまらずにほとんど動かず、実質的には松平家だけが戦うことになった。

徳川綱吉による後南朝後胤の断滅策、南朝功臣の子孫弱体策が、結局は徳川幕府の終わりをもたらすものへと繋がったと考えられるのである。

関ヶ原の戦いでの勝利は、南朝功臣の子孫たちの勢力によるところが大きかった。それにあまり報いることなく、あろうことか、後南朝後胤を断滅、南朝功臣勢力を改易の嵐で追い落としてしまった。

七生報國。

徳川幕府の最期には、小倉宮家や南朝功臣たちによる祟り、怨霊が絡まなかったとは言い切れないであろう…

後南朝、美作朝廷の御霊方を、現代であれば、宮内庁が祭祀を調えて慰霊することが、国の安寧、安泰のあり方として望ましいと思われるのであるが、どうであろうか。今後の皇室、皇家の安泰のためにも。

玉日姫のこともあり、更に祟りや怨霊について色々と考えるようになったことも、もちろん影響としてあります。