ガイドツアーとはいえ、密かに、俺が行っていない場所など日程に忍び込ませた。俺にとって大事。
1944年8月対馬丸という疎開船(民間人・学童合わせおよそ1700名)が米軍の潜水艦に撃沈される。この事件は、軍によって、厳しく隠ぺいされる。
戦後、学童の遺族たちが中心になって「記念館」が作られ、語り継がれている。
同じように、軽便鉄道の爆破事故が起こるが、こちらも厳しく隠ぺいされ、残された資料も少なく、最近になってTVで特集されるようになった。
この事件を少し調べ始めたので、現地に立ってみたいと思った。
写真・旭橋にある那覇駅の遺構。
沖縄戦は「持久戦法」であった。迎え撃たず、持久になるには2つの引き金があった。1つは、最終的な日本軍の兵力のうち、戦闘部隊・実戦で武器が使える兵は53000ほどだったが、1944年11月に第9師団25000が台湾へ持って行かれ、戦闘兵力の3分の1を失ったこと。2つ目は1944年12月11日に起こった「軽便鉄道爆破事故」であった。兵士210余・女学生8人・乗務員3名が亡くなり、輸送中の弾薬・燃料のみならず爆発現場付近に置かれた弾薬も爆発で無くした。爆発音は一晩中鳴り響いたという・・・長参謀長をして「今、敵上陸するとせば、われは敵に対応すべき弾薬なく玉砕するほか無き現状」と言わしめている。戦中はかん口令が敷かれ、秘密裏に処理された。
この事件を追うべく、調べ上げた、爆発現場にまず立ってみた。どこにでもありそうな、喉かな農村がそこだった。この道路は糸満線が走っていた場所で、この辺りが爆発現場である。
軽便の纏まった資料館は、ここだった・・・爆破事故の何がしかの資料もあるかと・・・行ってみたが・・・
まずオジイと記念撮影・・・・
入場券は昔の切符のレプリカ・・自分でハサミを入れる。
ARで展示の写真を見ると、カラーになる・・・・
しかし、爆破事故の資料は全くなく・・・学芸員もそちらへの意識は無かった・・・まぁ・・こんなものかもしれない。
大里グスクも行った。第一尚氏の時代、まず南部のここが落とされ(1402年)、以降、中部・北部と各地の按司(あじと言います・その地域の大名と考えれば・・)を征服し、統一を遂げるのであった。
戦中は石垣などが建築資材に使われ、さらに米軍の攻撃・・・戦後は復興の資材と使われ、遺跡は消失する。
平成2年度から発掘調査が始まり、戦後の公園事業の構造物を撤去しながら整備が進み、2012年1月には国の指定史跡となって、少しは昔の姿が蘇ったのであった。。
城の大きさが想像できる広場(馬場であるとか、家来の住居とかあったのかもしれない)を過ぎると、やがて2の丸・そして本丸が現れる。
立ち寄りなので、速足の見学だったが、わしゃ、ここなら半日は居られる・・・・
こんなところにも行った。実は年金者新聞の原稿で、「3人の戦前で嫌われていない行政官・軍人」というシリーズを書こうと思っている。
(現在は、「沖縄から眺める本土日本」というシリーズを書いていて、毎月1回、それが14回まで発行され、17で1つの区切りを迎える)
3人とは、戦前最後の知事「島田叡」・最後の県警部長「荒井退造」そして海軍の「太田中将」である。現在の警察資料館を見学すれば(コロナで久しく見学できなかった)何か、荒井退造氏の資料でもあろうかと、やってきた。
事前の申し込みで、若い方が対応したが、、「ところで、どうして見学しようと思ったのですか?」と、明らかに不思議がられ・・・
荒井退造氏を調べていて、そちらに何かあればと思ったから、と伝えた。
資料館には何もなかった・・・ここは、郷土学習なんぞで、児童がやってくるのが大半らしい・・・
若い電話対応のお兄ちゃんが、こんなものしかありませんでした(事前に荒井退造関連を調べたらしい・・)と、資料を見せてくれた。
おかげで14Pに及ぶ資料を画像に収められた。(昔ならコピーを頼むが今どきはデジカメで便利だわ!)
今回から、そうだ!沖縄の都道府県の慰霊碑を、毎回一つ紹介したらいいかも?と、思付きで・・
仲間や知り合いの県をさ・・・ってことで、今回は石川県。
摩文仁の丘にある。
すっきりしたたたずまいである。
20日の濃厚接触・・1名。