館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019若夏(わかなち)の沖縄その3・・学校で習った歴史が当てはまらない沖縄。

2019-04-25 05:18:46 | 旅は続く
3日目は琉球国が出来るまでのいにしえを訪ねる旅であった。
まずは、神話の世界から・・・・



国産み(くにうみ)とは、日本の国土創世譚を伝える神話である。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。そして、『古事記』などではその後2神で島を産んだのである。
同じような神話は世界中に有って、沖縄にも言い伝えが今も生々しく残り、先祖への信仰が厚いこの島では、遺跡は大事にされている。

アマミチュー(女神)、シルミチュー(男神) の2神が国を作り、苗を植え、と遺跡・霊場があちこちにある。アマミチューはアマミキヨと呼ばれることが多いが訪ねた浜比嘉島ではアマミチューだ。彼女たちは高天原ならぬ「ニライカナイ」からやってきたのだ。




アマミチューのお墓など参拝。



去年から島のネーネがぜんざいやモズクを売っているのだが。美味しい。浜比嘉島の海はモズクの栽培が盛んなのだ。そして塩モズクは市場の半値で買える。今回も買ったぜ!






2神のお住まい跡なども訪ねた。あくまで、神話の世界だ。おそらく、本土の古事記や日本書紀の影響を受けて、12・3世紀に出来た物だろう(筆者私見)。



次にやってきたのは伊計島の仲原遺跡。
土地改良事業の事前の発掘調査で竪穴住居址が発見され、これにより不明であった沖縄県の縄文時代晩期(約2500~2000年前)のムラの広がりや住居の大きさ、造りなどが具体的に分かってきた。また遺物も土器の鉢、壺、石斧類、骨製の針、錐、他に当時の人が食べ残した獣・魚骨類、貝殻類が出土。昭和61年に国指定史跡である。まずほとんど観光客は来ないが、この時は2組5人来たぜ。



住居跡など復元されているが、家の中に炉がない。入り口も不規則に空いている。ちょいと不思議。



縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・・・学校で習った日本の時代区分ってな、西洋の歴史に模したもので、地域のダイナミズムをむりやり型枠に押し込めるようなものだ。日本の各地、もっともっと、現在につながる特殊性や個性をもつものである。

沖縄の歴史は、実は平安末期の頃まで、いわばずっと縄文のような時代だったのだ。貝塚時代と呼ばれる。

それが、12世紀になって、突然農耕が始まり・城が築かれ・城(グスク)の時代と表現される怒涛の時代が現れるのだった。今も習うであろう歴史の教科書なんか役に立たないのだ。

さて、旧石器の沖縄人・・後の貝塚時代の人々との連続性やいかに?

突然文化形成するグスク時代の人々(島伝いに九州方面から渡ってきたのだろう)と先住の貝塚時代の人々との出会いとその後やいかに?

文字の残っていないこれらの考証は考古学の成果に頼る以外にないが、わからないことばかりの沖縄なのであった。

ロマンだ!






江戸は300年。琉球王朝は400年の歴史がある。尚王朝が統一する寸前の最後の武将たちのお城(グスク)を見学し、歴史に思いを馳せた。
まぁ、統一した尚王朝の居城が首里城。最後に征服された武将たちを豊臣や武田なんぞと置き換えて眺めるのもよろし。



中城城址・・築城の名手、武将、護佐丸のアーチ門が美しい。世界遺産である。




発掘途中で、このような石なども見つかっているらしい・・・写真のうっすらとオレンジの丸がわかる。



ペリーが江戸幕府に港を開くように脅しをかける前、何度も沖縄に来ている。江戸がダメなら、沖縄を占領するつもりだなどと、本国の上官宛に送った文書なども残っている。そのペリー・・・・中城城を見て、世界で一番美しい城だと語っているのだった。



さて、次はもう1人の武将、阿麻和利(あまわり)の居城、勝連城址にやってきた。世界遺産である。





どちらのグスクも防御にたけた、見事なお城なのだ。

2人の武将とも1458年に尚王朝に滅ぼされ、尚氏は琉球統一を果たすのであった。



貿易立国として、中国の王朝に庇護されながら発展するが、その後1600年初頭に薩摩に侵略され、苦難に満ちながら、明治の琉球処分まで統一した1つの国として、琉球らしさ・沖縄らしさのおおもとを作っていったのだった。

沖縄のアイデンティティー・・・・・・・・長きにわたる沖縄・琉球の歴史とその折々の人々の営みから紐解かないと、わからないことだと僕は思っている。


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2019若夏(わかなち)の沖縄その2・ひめゆりの道・・そして学徒碑をめぐる。

2019-04-24 05:15:43 | 旅は続く


首里の大本営・・その後方支援のために首里の南、南風原に陸軍病院ができ、隣の津嘉山に第32軍司令経理部が置かれた。そのかなり南の糸数にも病院壕(糸数分室)が設けられた(有名なアブチラガマ)。
那覇の安里に沖縄師範学校女子部・第一高女があり、その混成部隊が「ひめゆり学徒隊」である。
今、彼女たちは学校のあった場所(今は大道小学校などになっている)に立っている。

ここから、ひめゆり終焉の地まで、ひめゆりの通った道の追体験が始まるのだ。



南風原の文化センターにやってきた。20余りの壕が掘られた陸軍病院のあった場所だ。
ここに彼女たちが招集されたときは、皆勝つと信じていた、住民もなごやかで、農民は彼女たちが兵隊や医師などここに暮らす軍人たちの炊事などしている場に野菜などを売りに来たらしい・・・

壕の掘られた小高い丘の下に文化センターはあり、炊事場・・・少し離れて、なくなった兵士の埋葬場所などあったらしい。



資料館には現在公開されている病院壕20号の内部が再現されていて、負傷兵の寝る2段ベッドなどある。寝ることもできる。



資料や掲示物もかなりあって、ここをくまなく見学するには3時間はかかりそうだ。

壕の見学は事前予約が必要で、文化センターのホームページからネット予約や、所定用紙を打ち出し、ファックスで予約でき、予約完了するとメールなど届く。



壕までは結構な坂道(飯あげの道)を桶(ご飯など入った)を担いで配膳したらしい・・・



途中、日本政府の作った碑などあるが、うさんくさい。



見学できる壕の広場には東大の生協が建てたこのような碑もある。



壕は飛び込みで見学は出来ない。それは、しっかりしたガイドが案内するからだ。ガイドがつくと、入る情報量は格段だ。



いよいよ、ひめゆりたちが最後にたどり着いた壕周辺。この記念館にやってきた。



2千坪の敷地は、儀間さんという方が無償で提供し、ここの運営も行政に頼らない、ひも付きでない運営が続いている。




行政の建てた立派な塔の傍らに、生き残ったひめゆりたちが戦後早くに建てた塔がたたずむ。僕は何度も入館しているので、自由に見るようにと自由見学1時間半を与えた。



敷地内にはモニュメントや慰霊碑が並んでいるが、この碑は、学徒ともに医療に従事した方々が刻まれている。







摩文仁に司令部が移動し、病院も移る過程で爆撃や銃で撃たれる・たどり着いたガマで爆弾が破裂する・・・日を追うごとに死んでゆく学徒だが、6月18日に「解散命令」が突然出され、絶望の中、米軍の包囲する戦場をさまようことになる。組織的戦争が終わる23日までの数日が、それ以前より厳しい惨状を生むのだった。

逃げ惑った彼女たちと、数名の先生たちは、絶壁の海岸に出る。荒崎海岸である。本島最南端である。
逃げた背には火炎放射の炎・・眼前の海にはおびただしい数の軍艦からの砲撃だった。

琉球石灰岩のささくれて鋭い海岸をさまよい、手りゅう弾で自決した場所は慟哭の声が今も聞こえるような場所だ。

彼女たちも、琉球石灰岩の鋭さに驚きながら、自決の場に立った。



荒崎海岸から1.4キロほどの岬が本島南西端の喜屋武(きゃん)岬だ。



20mほどの絶壁の岬は、追い詰められ、行き場を失い、身を投げるしかなかった岬だ。
北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬は、投降に応じなかった日本兵やら民間人が身を投げたバンザイクリフがある。
この喜屋武岬は「日本のバンザイクリフ」と呼ばれている。あの戦後沖縄を差し出すことで、自らの保身と本土占領を免れようとした天皇。「天皇陛下バンザイ」と言って、身を投げた住民・学徒が悲しい。



今も、生きることに疲れて身を投げるひとがいるのだろう・・・・こんなタイルが掲げられているのだった。
こうして、ひめゆりの道を僕らはなぞったのだった。



「崖」          石垣 りん
 
 戦争の終り、
 サイパン島の崖の上から
 次々に身を投げた女たち。
 
 美徳やら義理やら体裁やら
 何やら。
 火だの男だのに追いつめられて。
 
 とばなければならないからとびこんだ。
 ゆき場のないゆき場所。
 (崖はいつも女をまっさかさまにする)
 
 それがねえ
 まだ一人も海にとどかないのだ。
 十五年もたつというのに
 どうしたんだろう。
 あの、
 女。 
         
(詩集『表札など』・1968年刊)



3泊4日の行程で、立ち寄れる「学徒の碑」も回った。
写真・・・平和祈念公園の敷地に2017年に建てられた「全学徒隊の碑」



沖縄師範男子部・・・あの鉄血勤王隊の慰霊碑だ。摩文仁の丘の司令部壕を下った場所にある。動員された学生386名・・戦死者226名。



昭和女学校「梯梧の塔」・・・ひめゆり祈念館の隣にある。動員された生徒17名・・戦死者9名。



沖縄県立首里高等女学校「ずいせんの塔」。動員された生徒61名・・戦死者33名。




積徳高等女学校の慰霊碑。動員された生徒25名‥戦死者4名。




今は那覇市立商工学校。和魂の塔。動員された生徒不明・・・・戦死者114名。



県立第二高女「白梅隊」・・・・慰慰霊碑南部は糸満にあるが、学校のあった松山公園には、学校があったことを伝えるモニュメントが建っている。
動員された生徒46名・・・戦死者17名。

学徒・沖縄全21校に学んでいた若き知性たちだ。生きていたら戦後沖縄の沖縄の政治・文化・行政、そして米軍支配に対し、違った姿を描き、作ったに違いないと、こうした慰霊碑の前に立つ時いつも、僕は思うのだった。

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常磐道下り「谷田部東」・サービスエリアB級グルメその82。

2019-04-23 05:12:21 | グルメだ!


最近常磐道に乗る機会が増えた。
東北道の館林から乗って、南へ向かい「久喜白岡ジャンクション」で圏央道に乗る、やがて「つくばジャンクション」で常磐道だ。
が、しかし、東北道の羽生SAから60キロ超の区間にSAやPAがなく、トイレの問題で、出発時は水分を控えるありさまだ。
だから、常磐に乗ってすぐのこのサービスエリアには必ず立ち寄る。




昼時だった。はじめてのサービスエリアで食事の場合「てんぷら蕎麦」を食うことにしている。
俺のブログの食べ比べの多くは「てんぷら蕎麦」だからである。

普通のかき揚げ天ではなく「特製かき揚げ天蕎麦」にしてみた・・・

エビがたくさん入っているのが、特製のゆえんのようだ・・・

汁は関西人では間違いなく拒絶反応が起こるに違いない「黒い」汁だった・・・・

これがねぇ・・・しょっぱいと思いきや、甘辛でなかなか行けるのだ。

天ぷらも及第点、麺も及第点。

お勧めレベルであったぞな。



大きく張り出してあったメニュー
 
茨城は納豆の県?

土産にも納豆の各種商品が多いぜ。

こんどは、これ食うんだ!
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2019若夏(わかなち)の沖縄その1・・2つの大本営をめぐる。

2019-04-22 05:19:16 | 旅は続く


今回のガイドツアーは女房とロストのゆっこ。
3つのテーマに沿って行程を組んだ。
1つは、「ひめゆりのたどった道」2つ目は「2つの沖縄大本営」3つ目は「琉球王朝の成立」。



4月1日に読谷村に上陸した米軍に対し、首里城に大本営(司令部)を置き、兵隊が武器を持って戦う前線を10キロほど先の牧港~嘉数~西原の高台に置いて米軍を迎え撃つ。
沖縄戦最大の激戦が行われたのだった。やがてこの前線は破られ、数キロ南の前田高地(浦添ようどれ周辺)に後退し、ここでも激戦だったが、この戦いに敗れたのちは、首里城大本営も南部の果て・・・太平洋の荒波がよせる摩文仁の崖下に自然壕を利用しつつ穴を掘り拡張した「摩文仁司令部壕」まで撤退する以外になかったのだった。

写真・・前線嘉数の高台。この嘉数は京都の部隊が大量に動員され、3000余の兵隊が亡くなる。だから、ここに京都の慰霊碑は建つ。




嘉数の高台に下には戦時下、美田やら豊かな畑があったが、戦後米軍が力ずくで普天間基地をつくってしまったのだ。普天間基地が良く見えるので、訪ねるひとは多い。



この世界遺産の「首里城」の地下には1キロとも2キロとも言われるトンネルが掘られ(あの元知事の太田氏も師範学校学徒隊「鉄血勤王隊」で穴を掘らされたのだ)1000人余の人が籠っていたのだった。本土決戦・・・松代の大本営が完成し、昭和天皇をそこに移し、戦う・・・その準備が整うまでと、捨て石の沖縄なのだった。

この日、数本前の飛行機に空席があったらしく、休日だった娘は(やつは空席があるとタダで飛行機にのれる職業なのだ・・)首里で合流、その夜の宴会まで一緒に過ごし、翌朝帰って行った)。
だから、何故かベーベーが3人なのさ。





1枚の絵の発見が正殿の姿を教え・・・・赤い柱の赤はどんな顔料から?と、再建に臨んだ人々の苦難の果てに、今の首里城は見ることもできる。
ここへ上るまでの坂道はあのシンボリックな「守礼の門」だが、ここに来たら、大本営のまぬけにもぽっかりと空いた、洞穴の入り口、大本営の入り口は」見なければいけない。



まぁ・・こんな感じで、アリの巣のように掘ったらしい・・・



現在4つほど入り口が見ることができる。写真は今年新しく解放された「東のあざ」の城壁下の公園のガマ。



首里城周辺は古の姿を忍ぶことができる場所も、戦火をのがれのこる。
写真・・金城石畳道。琉球王朝時代の城から港までの軍用道路である。



パワースポット・・・樹齢は200年を超すと言う「大アカギ」。以前は根元に立てたが、今は柵があって入れない。



首里大本営陥落の後、南部に敗走を余儀なくされたのだが、大本営は南端摩文仁の丘。
その数キロ北へ、国吉~八重瀬岳に前線を敷くが、もはやまとまった戦力ではなかったようだ。
首里に大本営の後方支援として首里から南へ数キロに、武官の経理部やら病院やらが作られる。そこがまさに「ひめゆり」たち、女学生の招集された場所となった。

摩文仁大本営への移動に伴い、病院壕も南部へ移動する(敗走する・・・歩けない負傷兵には青酸カリが渡され)この移動も、米軍の弾丸の標的とされる。
やっとの思いでたどり着いた壕が、現在の「ひめゆり祈念館」の立つ、第三外科壕だったりと、伊原周辺に最果ての壕がいくつも今も口をあけているのだった。

写真・・摩文仁の丘から望む「平和祈念資料館」。




平和の礎・・・沖縄戦で命を落とした人々が刻印されている。国籍は問わない。
2018年6月1日現在・・241525名(内沖縄県・149456人)
郡馬のエリアで、マスエのおじさんの刻印を眺める。



郡馬の塔・・・沖縄戦850の戦没者・南方諸地域戦没者29921名を合祀。「雄々しくも散っていった将兵の面影をしのんで・・・」と、どの塔も戦争の美化は変わらない。



6月23日(22日の説もある)最高司令官牛島中将が「最後まで死んでた戦え」と命令して、自身は自殺した摩文仁の大本営のガマだ。





海軍は小禄の飛行場(現在の那覇空港)を守るために、小禄周辺に壕を建設した。
瀬長島に渡る橋は飛行機の誘導灯の線上にあり、北には滑走路、上を見上げれば100mにも満たない至近距離で着陸寸前の飛行機のお腹が見れる。



海軍司令部壕は整備され、内部が見ることができ、太田中将ら司令部が自殺した場所も保存されている。



この太田中将は、「沖縄県民かく戦えり」の有名な打電を送って果てる。言葉の違う県民をスパイ視したり差別する日本国軍人にあって、県民の献身的姿を打電した、希な軍人であった。
戦前最後の知事「島田 叡(しまだあきら)」とともに、県民に恨まれていない軍人官僚」の1人ではなかろうか?



沢山の展示おあるが、これは秀逸・感深いものだ。

1977年慰霊祭り、太田中将孫が読んだ言葉である。わずか15歳か?

2つの大本営・・・陸軍と海軍・・・・

様々なメルクマールから、沖縄戦を追体験することは、今もって続く日本の米軍基地の70%を押し付けられている沖縄「いいかげんい沖縄だけにふたんさせないでほしい」という今の県民の思いに、実態を持って寄り添うすべのように思う。

ガイドしたお二人の感想やいかに?

僕は何度も行った場所でも、こうして「行ってみた」という人たちのガイドをする(ガイドできる)幸せを感じている。
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土筆・ノビルは最後かな?

2019-04-21 05:05:36 | 山菜・きのこ・釣り




今年は、他の雑草に覆われ、発生は少ない。

だが、十分。

俺のつくしの場所は、まず犬の散歩が出来ない場所。(飼い主のマナーが悪いからねぇ・・・)



2食分?



せっせと袴取り。



美味そうだぜ。



ノビルも、4月末までが時期。それを過ぎると、硬くなる。

今季最後かもなぁ・・・

又、来年!
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