館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2021夏の蔵王・・2日目。

2021-08-12 04:25:34 | 旅は続く


朝飯は8時30分に頼んである。4時起床・5時に林道を歩いていた。8日早朝なり。
今日は、昨日より沢が細く・源流域なので、中級コース。弟子にははじめての、ボサのある沢で難儀であろうと思われる。



直下15m・・網場を綱を握りしめながら降りる。



あまり梅雨で降らなかったようである。渇水ぎみだ・・・こうなると、ポイントは小さく、6m先のバケツの穴にえさを落とし込められないと釣れない。



小さなポイントを探る俺・・・弟子から写真が送られてきた。撮る余裕はあったらしい・・・



結局2時間半で俺が4匹。弟子は大きなイワナをばらすなど繰り返し、結局ボウズであった。




拠点のペンション「どんぐり」。

山形出身のオーナーは、山形愛なのである。
食事のコメが美味い!きっと、つやひめに違いない。
朝飯・・・お代わりして、満腹。



女房のために、少し観光した。片倉小十郎とその片倉家の菩提寺散策・白石の「直売所」が観光コースだ。

片倉家菩提寺「傑山寺」。

片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称小十郎(こじゅうろう)は代々の当主が踏襲して名乗るようになったのである。
関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、主君・伊達政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主を賜る。この特例が許されるのは、数例しかなく、如何に伊達が特別に徳川から扱われ、その片倉小十郎も扱われたかがわかる。ちなみに、あの真田幸村の子どもを密かにあのさなかに預かり、育てたのだから、天晴でもある。



戦国期収まらぬ初期の江戸期において、まだ、戦乱を意識し、自らの墓は墓石を置かず、あの大きな杉の木の傍らに埋めよ!と、戦で負け、墓を暴かれるのを避けたというのも、つわもの(兵)が生きた時代だよなぁ・・・

などと、女房も(弟子も)、この歴史散策は満足そうであった。

こうして2日目、観光案内&運転手の蔵王旅は終わったのだった。

9月いっぱいで禁漁だぁ・・・あと、2回は・・・・渓流に行きたいなぁ・・・・・・!


11日の2m圏内接触者。

濃厚接触・・女房・足つぼべーべー・2名。
笠原自転車・・・・・・・・・・・・1名。
丸山果樹園・・・・・・・・・・・・1名。
風呂(すれ違い)・・・・・・・・5・6名。


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