館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019旧正月の沖縄・・その3・・学徒碑参りそして県民投票の沖縄。

2019-02-14 05:17:28 | 旅は続く


沖縄戦に動員された21校の学徒隊・・・・動員生徒は1923名・・教師は64名。その戦死者たるや生徒は981名・・教師は37名。
この高等教育を受けた若き知性は、やがて、沖縄の産業を担い・政治や行政を担い、沖縄をある意味導く知性たちだったに違いない。
彼ら、彼女らが生きていたら、戦後の沖縄は違った姿で、もしかしたら、これほどの基地を押しつかられなかったようにも、僕の妄想は続くのだった。

その学徒の慰霊碑が沖縄中にある。南部に集中するが、嘉手納に1つ・恩納村に1つ、名護や本部にも慰霊碑が立つ。そして石垣・宮古のもある。
僕は昨年で南部15校を回ったので、これから、機会をとらえて他の碑も手を合わせたいと思っている。

今回は、通り道嘉手納の慰霊碑を目指した。読谷からバスに乗り、嘉手納との境の大湾バス停で下車。
嘉手納の野圀総菅公園を目指した。バス停は嘉手納の方が近いかもしれない。



町の境は比謝川・・・・この川の下流2キロほどかな?そこが、米軍の上陸地点だ。




野圀総菅・・・野圀村(今は嘉手納基地の中)の清王朝への貿易船の乗組員の役職名が総菅である。琉球芋(薩摩藩が名前まで奪って「さつまいも」)を伝えた方である。
沖縄は侵略した薩摩(大和の国)への憤りは、今もあり、許してはいないのだ。
寒緋桜は五分咲きだった。




農業・林業の分野で沖縄のエリート育成の「沖縄県立農林学校」は嘉手納に有った。
戦争で130名の学徒のうち、23名が亡くなっている。戦争で存続叶わず、廃校になり、同窓会が慰霊していたが、その同窓会も高齢で活動が困難になって、ゆかりの嘉手納町が慰霊の塔の管理を引き継いでらしい。




今、映画で話題の「沖縄戦スパイ戦史」に駆り出された部隊の1つだ。




広くないが、誰もいない公園で、昼飯を食べた。



辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票の佳境だった。
一部自治体が、自民党の工作で、投票の不参加を表明したが、県の譲歩で参加になった。

議員やら首長が、自分の立場で、有権者の投票の権利を奪うことは、憲法違反だ。



こんな米軍の軍用車が、当たり前のように、狭い道路やら、生活道路を走りまくる島なのだ。



モノレールの中やら、駅のホームやら・・・・



街角やら・・・・盛り上がっているかも?



あちらこちらに、投票しよう!と、語り掛けていた。

圧倒的に、反対とはならないだろう・・・・

まして、賛成・反対の選択枝だったものが、
一部自治体の反対と、その譲歩で、賛成・反対に、どちらでもないが加わった。

それでも、反対が多数になるように、こん回の沖縄で僕は思ったのだった。

まぁ・・県民投票が、今の政権にそぐわない結果が出ても、この国の政府も・裁判所も、無視するだろうけどね。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする