館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2015沖縄旅その3・女房リクエスト2日目・3日目。

2015-04-08 06:44:01 | 旅は続く


2日目は南部にやってきた。
「ひめゆり」は彼女は初めてだ。



慰霊碑前の献花台に献花・・・・

沖縄戦にまつわる資料館とかは、沖縄のすべての市町村に、その行政立の資料館があると言って、言い過ぎではない。潤沢な基地予算もあって、「村」と名のつく自治体にまでくまなく「博物館・資料館・祈念館」がある。
だが・・・ここ「ひめゆり平和祈念資料館」は、入り口から、中まで、違う雰囲気があるのだ。

見殺しにしてしまった・・・そのような学友への想い・生き残ったことの贖罪・・行政にたよらず、ひめゆりの関係者が、寄付とボランティアで設立・運営している凄味がここにはある。



沖縄師範学校、そして県立第一高女から動員された学徒名だ。一女の校誌「乙姫」と師範の校誌「白百合」を合体させ「ひめゆり」と呼ばれたのだ。
沖縄のエリートの集まりであった。
復帰後建てられた立派な慰霊碑の前に、伊原第三外科壕が暗黒の口をあけ、その前に、ひめゆりの関係者が、米軍統治時代に建てた本物の「ひめゆりの塔」がある。亡くなられた方々の墓碑もそばに立ち、無念の気が流れている。




当時の学校の並木・・相思樹が記念館まえに同窓生たちによって植えられ・・年々大きくなっている。

戦後70年、それは、生き残った人たちが・・語り部たちが居なくなってゆくに十分な年月だ。
今年の4月で、修学旅行生や団体への「講話」を彼女たちが止めることを決意した、結節点でもあった。

若いボランティア人たちも育っているようだが、今、あの戦争を語るとき、日本中で「語り部」の問題が起きていうのだろう・・・

語り継ぐ・・それはそれは、大事だと心から思う。



女房も3度の沖縄で、南部戦線はかなり回れたと思う。
平和祈念館・喜屋武岬・荒崎海岸・第二外科壕・本部壕・轟の壕・海軍壕・そして3年目はひめゆりであった。

糸満に来ているので、泡盛の器・・と、琉球ガラス村に観光。



製作現場風景。



結構見どころあり。



ここと、ベトナム工場で作っているらしい・・・売店の器にはシールで製作地がわかるようになっている。
ベトナムも現地にこの会社の技師が居て、しっかり作っているようで、遜色はない。
気に入った器が購入できた。



次にやってきたのは「白銀堂」・・・まず、観光客はこないようである。
結構ひっきりなしに、地元の方々がお参りに来ていた・・・



糸満の聖地・・沖縄で一番有名な「ハーリー」の時には各チームはここに願をかける。

有名な民話の場所だ。このような沖縄らしい民話!



わし・・・・反省を怠らなかったぜ!



白銀堂のすぐそば展望ポイント「山巓毛(さんてぃんもー)」。




遠くに東シナ海・うっすらと慶良間諸島も拝め・・・

糸満漁港も眼下に・・・この山巓毛(さんてぃんもー)からハーリーのスタートの合図の鉦をならすらしい・・



御大典記念山巓毛改修碑、国旗掲揚台及び防空監視哨跡などがあるが、敵に見つかりやすいと軍部が倒したままであった。



砲弾の跡も生々しい・・・そして、防空監視哨跡。



さてこの日は、ヒメユリともう1つのメインの場所、南風原文化センターにやってきた。





沖縄戦最初で最後の、拮抗する激戦が(後は敗走のみ・・・その敗走が、惨禍を極めるのだが・・)行われた首里決戦。
宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、沖縄大本営は首里城を貫通する地下に掘られていた。
50日に及ぶ戦闘であった。

この首里決戦の後方支援として、首里の南、南風原に陸軍病院が築かれ、ヒメユリたちが動員されたのだった。
ここが、出発点・・・「ひめゆり平和祈念館」に作られた壕のレプリカはここの壕を再現したものなのだ。
南風原文化センターの資料館には、壕の中の患者用ベッドなどが再現され、その他南風原の歴史や、民族資料など展示されている。




など・・・



庭には移民の碑。

文化センターの建つ場所は当時壕へ供給する調理場あたり・近くには、亡くなったかたを埋葬する大きな穴などあったらしい・・



その毎日食料を運ぶ壕は一山超えた場所にあり、「飯上げの道」として、残してある。(写真右の山へ向かう白い道)

飯上げの急峻な道を超えると、少し開けた場所。そこに発掘が済み、公開された陸軍病院壕20号がある。(写真の小高い丘の中はいくつもの壕が掘られ、20号は写真から見えないさらに奥の山の掘られていた)

30近い壕はすべて埋まり、今は20号のみ整備されている。



広場には憲法九条の碑が建つ。



文化センターにアクセスし、事前予約・・壕はボランティアの案内が付き、説明などしてもらえる。



火炎放射で真っ黒に焦げた壕。

ここから、首里陥落後、敗走がはじまり、歩けない負傷兵には青酸カリを飲まし・・・いくつかの壕など病院は転々としながら最後をむかえるのだった。

ひめゆりを見学する場合、今は、セットでここは訪ねるべき場所なのだ。

こうして、2日目の南部戦線めぐりが終わったのだった。



女房リクエスト3日目(旅日程では最終日4日目)は午前中のみ、フライトは12時20なので、一か所「対馬丸記念館」をチョイスした。

1944年(昭和19年)8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1,476名を出したのだった。

流れ着いた学童の遺品やら、当時のあらましなど展示されている。
亡くなった学童らの写真など、息をのむ。

僕は3度目なので、女房だけ見学。



すぐそばの波の上ビーチの公園で、まったりしていた。

最近のパターンである。



出発ロビー・・・・悲しくて落ち込む我・・・帰りたくなかった・・・・





コメント (4)
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