草ばっかり食ってる日々。

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菜園の三つ葉が旬だ。

 

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まずは、お浸し。軸が殊の外美味い。

 

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溶き卵で汁が美味いったら旨い。

 

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甘辛煮味付けし、卵とじも旨い。

 

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セリは終盤。胡麻和えが大好きなのだ。

 

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フキは大きくなり始めで、柔らかく、あく抜きなんぞするとかえって、風味が無くなる状態。しばらくは、フキの煮物を楽しむ。ちなみに鰹節と一緒に煮るのが好み。

 

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草ばっかり食ってる日々・・・やはり動蛋は大事!と、久々に風呂に行った。

37度の炭酸風呂にたっぷり15分・香りの風呂に5分・サウナに5分。

後は、外のリクライニングのベンチで日光浴・・・・

風呂上がりのホッピーが美味いぜ!

 

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足つぼベーベーは新人?

結構容赦ない方で、痛かったが効いた感じ?

ささやかな、休日。



出発ロビー・羽田。わくわく!







糸満、峯さんレンタは、時間が余ったので、皆が行っていない「山城・陸軍病院本部壕」に連れて行った。ランドマークになるようなものがなく、ひたすら農地の中なので、俺の記憶と地図で行ったが、何と、途中に道しるべが設置されていた。俺が訪ねるのも10年余ぶりであった。ぽっかりと空いた(写真がボケているが)壕の入り口はそのまんま。年に1度慰霊祭が行われる広場は、整備されていた。

 

元々は,山城集落の避難壕だったが、日本軍の南部撤退にあわせて、元いた住民は追い出され病院壕として本部の機能が置かれる。そこには南風原から激しい砲弾を潜り抜けたひめゆりの少女14名もいた。山城本部壕での彼女たちの主な任務は各壕へ指令を伝令することだった。

1945年6月14日の爆撃で病院長が戦死したため,陸軍病院本部は伊原アブチラガマ(第一外科壕)やチブラーアブ(第三外科壕)などに分散されることになってゆく。




10年の歳月。探すのも困難だった壕は、駐車場も整備され、トイレもあった。



 

壕からほどなく、水の確保が困難だった沖縄。水を豊富にたたえた河川が無い。

そこに、地下の石灰岩の中をくぐる水脈に「地下ダム」を作ったのだ。

有名な「米須地下ダム」

ったって、こんな場所を見学する観光客は皆無。立派で、誇らしげな姿だぜ!





地下ダムからくみ上げる以上にあふれた真水は、やがて海へ流れる・・・

この地下ダムから100mあまりの海岸の水は飲んでみると真水。

皆に、呑ませた!






昼飯に向かいながら、通り道なので、これも有名で、良く壕を囲む米兵と、やがて壕から出てくる住民の映像で目にする「轟(とどろき)壕」も見学した。(彼らは前日石川の資料館でその映像を観ている)。県知事島田叡と県警本部長荒井退蔵が最後に立ち寄った壕で、一緒に行動してきた県職員を前に「県行政の解散」を告げ、「生き残れ」と告げる。





自由時間に古本屋。遅ればせながら「水滴」を読もうと購入。





お決まり最終日は、帰って家のみのつまみ購入。



墓がでかくて、高いぞ!





4月は思いのほか花は少ない沖縄。火焔木が咲いていた。



自生したハイビスカス。



今回のシーサーは、農連プラザ。何故、服を着ているかは不明。

 

諦めかけていた、GOOブログの下書きが、すべて移行できた。ずいぶん時間が経ってしまったが、貴重な旅日記・・祝、復活!

うるま市からの道すがら、沖縄市コザにやってきた。ミッキーは初めて、他2人は1度来ているが、戦後資料館が新しくなっているので、見飽きないだろう。



コザ暴動・・・1970年12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件だ。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人をひいた交通事故だが、背景に米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。米兵が事故でひき殺しても、無罪になる現実に、怒りがたまっていた。ベトナムに向かう米兵は、生きて帰れるか定かならず、ありったけの金を戦地に向かう前に落とし、コザは潤っていた。米軍に好意を持っていると思っていたコザでの暴動にアメリカは驚き、占領を続けるリスクが分析・語られるようになり、1972年の沖縄返還の背中を押した事件だった。

車両75台以上が焼かれ、アメリカ軍人40人、沖縄人ガード5人、アメリカ軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警察官6人が負傷したが、死者はなく、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生していない。



ここは、見どころ満載の資料館だ。1度は沖縄に行ったら訪ねるべきだ。





基地の街は、その歓楽街も白人の場所と黒人の場所に分かれ、アメリカの人種分断が、ここにも持ち込まれていた。
黒人による、キング牧師の追悼行進もあったんだねぇ・・・・







嘉手納第二ゲート・・僕らはゲート通りを基地に向かって歩く。



ベトナム戦争が終わり、すっかり火の消えた歓楽街は、以降、市は活性化を試みるも、いまだ輝きはない。



沖縄市はエイサーの街でもある。







街中ぶらり・・初日。昼飯にたらふく肉を食ったあと、那覇商業高校。ここはグラウンドの隅に、学徒碑があるが、なかなか写真に収めるのが難しい場所だ。
俺は数年前、職員室に行き、校長の許可のもと、若い先生に案内され中から見学した。
商工鉄血勤王隊・・・動員99名・犠牲者73名・・・その犠牲者の慰霊碑だ。「和魂の塔」。







初日は、発掘調査など壕の一般公開に向け動きのある、第32軍司令部壕(首里城直下にある)の進み具合見学。
入り口周辺は道ができ、新たな入り口の発掘跡など見れた。
県公報には以下の案内がある。
「県では、同壕の保存・公開の可能性や平和発信・継承のあり方等について、多角的な視点から議論していただくため、専門家等で構成する第32軍司令部壕保存・公開検討委員会を設置しました。」





暑かった・・・・ブルーシールアイスが美味い!俺の食った、ピスタチオ入りもうまかったぞ。

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とりあえず、昨年末の新曲だったやつと、今年の新曲に焦点を当てて練習が始まった。8月の熊谷が、メインで1時間なので、そこがターゲットで練習の演目が構成される。

 

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なんだかねぇ・・・今年の新曲はいい感じで、ほぼ仕上がったかんじなんだよな。

こうなると、あまり根を詰めて練習するとピークが過ぎちゃうのだ。

 

そこで、次回からは、またロスト歌集に戻って、ロスト歌集の練習に入ってない曲から、練習(まぁ・・しばらくやらないと、忘れたりがある・・)として解散した。

 

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何だか、やたらスイーツが集まった今回の練習。

食って・飲んで・おしゃべりが続く、ロストべーべー達だった。

 

新曲・・考えるか・・・の監督であった。

 

9月に雑花塾のコンサートを開いてほしいと話がある。そろそろ具体化で動くか?

嬉しいことに!!!

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GOOの過去記事が、移行できたようだ。

ただ、下書きの部分や、表紙として使ったロスト音源などは無理だったようだ。

10年余が全く消えて、参っていたが嬉しい。

下書き部分は、写真が残っているので、また・・記事にすればいいか・・・

大事な、俺の日記のようなものだからな・・・・

 

とりあえず、乾杯!

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佐野風の子保育園は、沖縄になっていた。どこから、誰の、この大きなシーサーを・・・・

 

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ウッドの長谷川さんの尽力で、復刻・復刊した絵本の原画展にやってきた。

 

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沖縄本島から八重山の島にやってきた役人の圧政に、たくましく生き抜いてゆく人々を擬人化したカニたちが、躍動する絵本だ。

ゆんた・・仕事うたの躍動も素敵。

 

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絵の宮良さんもそうだが、作者の代田昇さんの、沖縄戦など知って、ちょっと驚きだった。その沖縄戦(兵士として)での住民との邂逅が作らせたこの絵本であったか・・・

 

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各コーナーのレイアウトも、見やすく良かった。

何より、原画が、ガラスやアクリルを通さず見れる志向は感激だった。

 

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写真では再現は無理だが、原画の質感が、見事に迫り、すごかったなぁ・・・・

 

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八重山のカニたちの写真も良いぞ・・・・(旨そうなやつもいた)

 

今日が最終日らしい。ぜひお近くの方は、見に行くことをお勧めする。

4月18日の菜園。

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かぼちゃ・バジル・モロヘイヤ・唐辛子(4種)オクラ・ゴーヤ・ツルムラサキ・ピーナッツ(おおまさり)・苗にすべく蒔いた。

 

 

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前回のはすでに発芽、今回と合わせ、にぎやかな温室。

 

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蔓なしインゲン3種類を直播。写真忘れたが、枝豆も第一回を蒔く、これからまだ3回時期を分けて蒔く。

 

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コーヒータイムはちんすこうが付いた。蒔くというのは、何気に中腰で、老体にはつらくなってきた。

 

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写真、茂っているのは黄色の菊。手前の藁が敷いてあって、大事にしていた、紫の「もってのほか」・・・ひん死。

 

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問題は、食用菊。黄色は毎度のことながら、繁殖力が強く、すっかり苗だらけになっていた。

 

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9本ほど植えた。

 

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もってのほかは、我がままで、かなり土を選ぶのか、今年はほとんど苗が採れない。

数年前もひどい時があった。

 

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とりあえず苗らしきランナー。

 

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上等な土で、温室で育て、しっかりした苗にして移植。さて・・・何本育つか・・・

参ったな。

 

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菊の跡地は肥料を入れ、耕した。枝豆かオクラの予定地。

 

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勝手に生えたベゴニアをポットで冬越しさせたのだが、プランターに移した。

 

この後、芝生のカタバミ取り・イチジクのカミキリムシ退治・・・・

4時間の百姓を、頑張った。まだ頑張れるんだな・・・・

 

 

 

 

初物、続々。

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とりあえず、新規投降練習中・・・・何とか、なって来たかも?鴨。

平地のこごみ。ついにこの季節がやってきた。

 

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お浸しで、旨い!

 

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胡麻和えも最高だ。

 

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菜園の春キャベツも、ついに収穫できる玉になってきた。

 

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千切りで、ハム。

この場合のハムは、上等なやつじゃなくて、下卑たハムが断然合う。

これに、ちょいと醤油で、熱々のご飯さ。

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ついに、タケノコの季節がやってきた。ふふふ!!!

 

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まだ、3本だったぜ!これから、毎週か?

 

美穂からも届くので、しばらくタケノコ三昧さ~~~

 

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まずは定番の「煮物」!

 

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定番タケノコご飯!美味い!





大典寺・・浄土真宗本願寺派の現役寺院。ここが戦前経営した家政学校が、積徳高等女学校。戦後学校は再建されなかったが、この女子学徒隊がふじ学徒隊と呼ばれ、第24師団第二野戦病院に動員される。動員25名・・犠牲者3名。犠牲者が思いのほか少ない理由?(謎解きは後に記述)。
峯さんレンタカーで、彼女たちの足跡を追った。





何度も俺は来ている。おばぁスナック組も2度目だが、実は今年に入って、新しい動きがあって、そこが見たいと再訪。
第二野戦病院壕は豊見城城址にあるのだが、そこは戦後遊園地などで、一時期栄えるが、やがて打ち捨てられ、廃墟のようになっていた。
昨年工事が入り始めて、町が公園整備するのか?と、思っていたが(私有地だったからそこら・・どうだろう?の疑問も)、今も工事が入って、荒れ果てた廃墟は、歩道も新しくなり、公園として整備が始まっているようだ。



数年前一人で廃墟をさまよい、1時間以上かけて、草をかけ分け、やっと見つけた病院壕関係者の慰霊碑。今は、場所がわかっているから、車からものの5分だった。
まぁ・・さまよい・わずかな資料で探すのも、結構楽しくはあるが・・・
碑の裏には、積徳女学院の名も刻まれている。周辺はきれいに整備されていた。





手すりも何にもなかった階段は、すっかり整備され、案内版も建っていた。







クワズイモやらうっそうと茂った亜熱帯のジャングルをかき分けて見つけた壕の入り口も、すっかり整備されていた。



そして今年2月に新聞に出た記事に目が点になって、ぜひ行かねばと俺は思ったのだった。
記事は、壕の責任者小池勇助軍医の生きざまと、荒れ果てていた自決の壕を平和学習の場にすべく、出身市の長野県佐久市がクラウドファンディングで資金を集め、整備し、その整備竣工式が行われたという記事だった。
国家と軍隊に様々な犠牲を強いられ、多くの住民が死に追いやられた沖縄戦。ふじ学徒隊は特殊なケースであった。
ふじ学徒隊を編成するにあたって、第二野戦病院の責任者、小池勇助軍医は対象となる積徳高等女学校4年生56人全員に入隊の意思を確認し、意思が確認された25名だけを看護を任務とする学徒隊として迎え入れる。個人の意思が尊重された稀な事実だ。

さて、この壕、5月になると野戦病院に運ばれてくる負傷兵の数は日に日に増え。

人工壕の中は・・・・腐敗した傷、患部の膿、垂れ流される排泄物、重苦しいうめき声だ。そのような状況のもと、学徒隊員は看護や治療にあたったのさった。
迫りくる米軍に、5月27日に第二野戦病院も糸満方面への脱出となる。撤退の時、自力で歩けない負傷兵はどこの壕でも、青酸カリを渡され、死ぬことを強要されたが、ここの島尾中尉という軍医は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く戦え」と励ましてその場を去る。





その糸満・糸洲の壕。撤退の果てにたどり着いた自然壕だ。やがて米軍に壕は知れ、催涙弾など攻撃が始まる。

6月26日、小池隊長から解散命令が出る。

「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして、凄惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」
隊長はその後、学徒隊の一人ひとりと別れの握手をし、衛生兵達も『アメリカ兵は民間人に危害を加えるようなことはしないから、安心して出て行きなさい』と勇気付けたと、彼女たちの手記に記されている。ひどい日本兵の話だらけの沖縄戦だが、少し本土の俺にとっては、ありがたい事実だった。







入ることを拒み続け、荒れ果てていた壕は、佐久市のおかげで、階段・手すりが付き、壕の入り口まで入れるようになった。

竣工式には糸満市長や佐久の市長や関係者が出席。デニーさんも列席、あいさつなどしたようだ。

この事実は、美談にしてはいけないと、皆、語ったようである。

佐久市あっぱれか!今年の、新しい出来事だった。見てこれてよかった。