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とりあえず、昨年末の新曲だったやつと、今年の新曲に焦点を当てて練習が始まった。8月の熊谷が、メインで1時間なので、そこがターゲットで練習の演目が構成される。

 

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なんだかねぇ・・・今年の新曲はいい感じで、ほぼ仕上がったかんじなんだよな。

こうなると、あまり根を詰めて練習するとピークが過ぎちゃうのだ。

 

そこで、次回からは、またロスト歌集に戻って、ロスト歌集の練習に入ってない曲から、練習(まぁ・・しばらくやらないと、忘れたりがある・・)として解散した。

 

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何だか、やたらスイーツが集まった今回の練習。

食って・飲んで・おしゃべりが続く、ロストべーべー達だった。

 

新曲・・考えるか・・・の監督であった。

 

9月に雑花塾のコンサートを開いてほしいと話がある。そろそろ具体化で動くか?

嬉しいことに!!!

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GOOの過去記事が、移行できたようだ。

ただ、下書きの部分や、表紙として使ったロスト音源などは無理だったようだ。

10年余が全く消えて、参っていたが嬉しい。

下書き部分は、写真が残っているので、また・・記事にすればいいか・・・

大事な、俺の日記のようなものだからな・・・・

 

とりあえず、乾杯!

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佐野風の子保育園は、沖縄になっていた。どこから、誰の、この大きなシーサーを・・・・

 

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ウッドの長谷川さんの尽力で、復刻・復刊した絵本の原画展にやってきた。

 

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沖縄本島から八重山の島にやってきた役人の圧政に、たくましく生き抜いてゆく人々を擬人化したカニたちが、躍動する絵本だ。

ゆんた・・仕事うたの躍動も素敵。

 

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絵の宮良さんもそうだが、作者の代田昇さんの、沖縄戦など知って、ちょっと驚きだった。その沖縄戦(兵士として)での住民との邂逅が作らせたこの絵本であったか・・・

 

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各コーナーのレイアウトも、見やすく良かった。

何より、原画が、ガラスやアクリルを通さず見れる志向は感激だった。

 

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写真では再現は無理だが、原画の質感が、見事に迫り、すごかったなぁ・・・・

 

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八重山のカニたちの写真も良いぞ・・・・(旨そうなやつもいた)

 

今日が最終日らしい。ぜひお近くの方は、見に行くことをお勧めする。

4月18日の菜園。

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かぼちゃ・バジル・モロヘイヤ・唐辛子(4種)オクラ・ゴーヤ・ツルムラサキ・ピーナッツ(おおまさり)・苗にすべく蒔いた。

 

 

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前回のはすでに発芽、今回と合わせ、にぎやかな温室。

 

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蔓なしインゲン3種類を直播。写真忘れたが、枝豆も第一回を蒔く、これからまだ3回時期を分けて蒔く。

 

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コーヒータイムはちんすこうが付いた。蒔くというのは、何気に中腰で、老体にはつらくなってきた。

 

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写真、茂っているのは黄色の菊。手前の藁が敷いてあって、大事にしていた、紫の「もってのほか」・・・ひん死。

 

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問題は、食用菊。黄色は毎度のことながら、繁殖力が強く、すっかり苗だらけになっていた。

 

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9本ほど植えた。

 

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もってのほかは、我がままで、かなり土を選ぶのか、今年はほとんど苗が採れない。

数年前もひどい時があった。

 

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とりあえず苗らしきランナー。

 

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上等な土で、温室で育て、しっかりした苗にして移植。さて・・・何本育つか・・・

参ったな。

 

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菊の跡地は肥料を入れ、耕した。枝豆かオクラの予定地。

 

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勝手に生えたベゴニアをポットで冬越しさせたのだが、プランターに移した。

 

この後、芝生のカタバミ取り・イチジクのカミキリムシ退治・・・・

4時間の百姓を、頑張った。まだ頑張れるんだな・・・・

 

 

 

 

初物、続々。

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とりあえず、新規投降練習中・・・・何とか、なって来たかも?鴨。

平地のこごみ。ついにこの季節がやってきた。

 

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お浸しで、旨い!

 

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胡麻和えも最高だ。

 

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菜園の春キャベツも、ついに収穫できる玉になってきた。

 

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千切りで、ハム。

この場合のハムは、上等なやつじゃなくて、下卑たハムが断然合う。

これに、ちょいと醤油で、熱々のご飯さ。





大典寺・・浄土真宗本願寺派の現役寺院。ここが戦前経営した家政学校が、積徳高等女学校。戦後学校は再建されなかったが、この女子学徒隊がふじ学徒隊と呼ばれ、第24師団第二野戦病院に動員される。動員25名・・犠牲者3名。犠牲者が思いのほか少ない理由?(謎解きは後に記述)。
峯さんレンタカーで、彼女たちの足跡を追った。





何度も俺は来ている。おばぁスナック組も2度目だが、実は今年に入って、新しい動きがあって、そこが見たいと再訪。
第二野戦病院壕は豊見城城址にあるのだが、そこは戦後遊園地などで、一時期栄えるが、やがて打ち捨てられ、廃墟のようになっていた。
昨年工事が入り始めて、町が公園整備するのか?と、思っていたが(私有地だったからそこら・・どうだろう?の疑問も)、今も工事が入って、荒れ果てた廃墟は、歩道も新しくなり、公園として整備が始まっているようだ。



数年前一人で廃墟をさまよい、1時間以上かけて、草をかけ分け、やっと見つけた病院壕関係者の慰霊碑。今は、場所がわかっているから、車からものの5分だった。
まぁ・・さまよい・わずかな資料で探すのも、結構楽しくはあるが・・・
碑の裏には、積徳女学院の名も刻まれている。周辺はきれいに整備されていた。





手すりも何にもなかった階段は、すっかり整備され、案内版も建っていた。







クワズイモやらうっそうと茂った亜熱帯のジャングルをかき分けて見つけた壕の入り口も、すっかり整備されていた。



そして今年2月に新聞に出た記事に目が点になって、ぜひ行かねばと俺は思ったのだった。
記事は、壕の責任者小池勇助軍医の生きざまと、荒れ果てていた自決の壕を平和学習の場にすべく、出身市の長野県佐久市がクラウドファンディングで資金を集め、整備し、その整備竣工式が行われたという記事だった。
国家と軍隊に様々な犠牲を強いられ、多くの住民が死に追いやられた沖縄戦。ふじ学徒隊は特殊なケースであった。
ふじ学徒隊を編成するにあたって、第二野戦病院の責任者、小池勇助軍医は対象となる積徳高等女学校4年生56人全員に入隊の意思を確認し、意思が確認された25名だけを看護を任務とする学徒隊として迎え入れる。個人の意思が尊重された稀な事実だ。

さて、この壕、5月になると野戦病院に運ばれてくる負傷兵の数は日に日に増え。

人工壕の中は・・・・腐敗した傷、患部の膿、垂れ流される排泄物、重苦しいうめき声だ。そのような状況のもと、学徒隊員は看護や治療にあたったのさった。
迫りくる米軍に、5月27日に第二野戦病院も糸満方面への脱出となる。撤退の時、自力で歩けない負傷兵はどこの壕でも、青酸カリを渡され、死ぬことを強要されたが、ここの島尾中尉という軍医は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く戦え」と励ましてその場を去る。





その糸満・糸洲の壕。撤退の果てにたどり着いた自然壕だ。やがて米軍に壕は知れ、催涙弾など攻撃が始まる。

6月26日、小池隊長から解散命令が出る。

「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして、凄惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」
隊長はその後、学徒隊の一人ひとりと別れの握手をし、衛生兵達も『アメリカ兵は民間人に危害を加えるようなことはしないから、安心して出て行きなさい』と勇気付けたと、彼女たちの手記に記されている。ひどい日本兵の話だらけの沖縄戦だが、少し本土の俺にとっては、ありがたい事実だった。







入ることを拒み続け、荒れ果てていた壕は、佐久市のおかげで、階段・手すりが付き、壕の入り口まで入れるようになった。

竣工式には糸満市長や佐久の市長や関係者が出席。デニーさんも列席、あいさつなどしたようだ。

この事実は、美談にしてはいけないと、皆、語ったようである。

佐久市あっぱれか!今年の、新しい出来事だった。見てこれてよかった。




島ラッキョウ好きの皆さまが未加工のラッキョウをついに購入。作り方を教えて欲しいと言われ、今から作り方を伝授。
購入品の3分の1を使う。残りは新聞に包んで冷蔵庫でほぼ1か月は大丈夫。食べたいとき作るべし。



根ぎわを切り落とす。皮が剥きやすく、食べない部分。







干からびた皮を剥くのが仕事(一番手間で、剥いてしまえば後は簡単)。
剥くと、2つ、或いは3つ、大きな球は4つに分かれる。(店で出てくる状態)



3分の1の青い葉は切り飛ばし、捨てる。





まだ、分けられそうな球は、包丁を入れると分けられる。





さっと洗い、半分に切る(食べやすい大きさにする工程)・これで、塩ラッキョウまたは天ぷらにする。





ボールに入れ、小さじ1の塩でよく揉む。



30分ほど置いて、食べてみて塩が少なければ、一つまみ入れ、良くもんでタッパーで1日。
(そのまま食べられるが、1日置くと良くなじむ)

①鰹節をふって、そのまま泡盛と。
②塩ラッキョウにポン酢も美味しい。

以上だ。


高速バスを待つ我々。この日は、うるま市探訪。俺が2月に行った場所の追体験。他の方々は初めてである。リクエストもあって「豚が海からやってきた」を観たいなどもあった。他、ミッキーが行っていないコザもオプションで挿入(記事は別ブログにて)。







まず、1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)現場を慰霊。その被害は、死者17名(うち児童11名)、負傷者210名(うち児童156名)、住家17棟、公民館1棟、小学校の3教室を全焼、住家8棟、2教室を半焼する大惨事だった。パイロットはパラシュートで脱出。



戦後いち早く米軍の拠点となった場所は、今は錆びれているが、社交街という怪しい通りが3つもまだ現存。





市長選只中。古びた家だなぁ・・と眺めていたら、中から人が・・・・セイゴウの知り合いだった。しばし、団らん・記念撮影。







戦後沖縄の行政は、この古びた家から始まる。前回俺は見逃していて、行けてよかった。







まだ戦争が続く5月・・・すでの米軍は捕虜収容所で「学校教育」を始める。日本軍ではありえない話だ。











歴史民俗資料館で、ここまで見学した場所などの詳細を追体験。





またまた、小那覇舞天さんに、会って来た。資料館では舞天さんの資料を集めている案内があった。







火鉢・・・欲しいなぁ・・・・





米軍コーナー・・・このレーションを見ただけで、勝てるわけが無かったと分かる。
実は俺にはあるミッションが、女房から与えられていた。写真の白い器を写真を撮り忘れので撮って送れだ。
同じものが、産まれた頃から家に有って、使っていたらしい。
館長さんを呼んで話を聞いた。米軍の物で、由来など不明らしい。手に取って見せてくれた。
裏に刻印があった。メイドインUSA。CORNING。材料科学の分野で世界をリードするイノベータで160年以上にわたり、特殊ガラス、セラミック、および光物理学の分野でシェアが大きいようだ。
女房の祖父は北軽井沢の戦後開拓でリーダーだったから、きっと米軍の放出品など有ったのだろう。







石川を後にし、タクシーでうるま市民芸術劇場にやってきた。「豚が海からやって来た」のオブジェを見に来たのだ。
戦後沖縄を救えと、ハワイの日系人たちが、寄付を募り、豚をオーエン号の一等客室に乗せ、やって来たのだ。
豚550頭・・豚を飼えば畑の再生になり、その豚を飼育すれば、やがて食料になると考えたという。沖縄の代表的食文化の一つである、豚食文化を途切れることなく、今に定着させた史実がここにある。





「豚を届けた7勇士」とあるが、原文はSEVEN HEROES・・・ヒーロー達だな。

豚は県内全市町村の農家に公平に分配された。大戦直後千頭ほどだった豚は3年後には10万頭まで回復。沖縄の自立復興の大きな礎となった・・・

彼らは、この話を、歌にしたいらしい・・・・こうして、うるま市探訪は終わったのだった。


カマスの甘酢あんかけ・・・・美味い。



白菜の美味しい季節はここらでは終わってしまった。我が家の白菜は今年は良くできた。
白菜のうま煮。余っていたウズラの卵が素敵。



イカは好みなのだが、小さいのしか出回らない。やはり、小さく、肉うすのイカは、ダメだなぁ・・・まぁ、生姜焼き。



久米島のモズク。



最後の自家製沢庵は、旨い。



相当年代物のクースーなので、期待して飲んだ。





あのまろやかな味。
芳醇な香り・・・・

期待値が高かったか?どうも、俺には合わないのか?

まぁ、美味しいことは美味しいが、あのクースーの持ち味が出ていない気がした。

47の蔵がある・・・まぁ、色々あらぁな。