

大典寺・・浄土真宗本願寺派の現役寺院。ここが戦前経営した家政学校が、積徳高等女学校。戦後学校は再建されなかったが、この女子学徒隊がふじ学徒隊と呼ばれ、第24師団第二野戦病院に動員される。動員25名・・犠牲者3名。犠牲者が思いのほか少ない理由?(謎解きは後に記述)。
峯さんレンタカーで、彼女たちの足跡を追った。


何度も俺は来ている。おばぁスナック組も2度目だが、実は今年に入って、新しい動きがあって、そこが見たいと再訪。
第二野戦病院壕は豊見城城址にあるのだが、そこは戦後遊園地などで、一時期栄えるが、やがて打ち捨てられ、廃墟のようになっていた。
昨年工事が入り始めて、町が公園整備するのか?と、思っていたが(私有地だったからそこら・・どうだろう?の疑問も)、今も工事が入って、荒れ果てた廃墟は、歩道も新しくなり、公園として整備が始まっているようだ。

数年前一人で廃墟をさまよい、1時間以上かけて、草をかけ分け、やっと見つけた病院壕関係者の慰霊碑。今は、場所がわかっているから、車からものの5分だった。
まぁ・・さまよい・わずかな資料で探すのも、結構楽しくはあるが・・・
碑の裏には、積徳女学院の名も刻まれている。周辺はきれいに整備されていた。


手すりも何にもなかった階段は、すっかり整備され、案内版も建っていた。



クワズイモやらうっそうと茂った亜熱帯のジャングルをかき分けて見つけた壕の入り口も、すっかり整備されていた。

そして今年2月に新聞に出た記事に目が点になって、ぜひ行かねばと俺は思ったのだった。
記事は、壕の責任者小池勇助軍医の生きざまと、荒れ果てていた自決の壕を平和学習の場にすべく、出身市の長野県佐久市がクラウドファンディングで資金を集め、整備し、その整備竣工式が行われたという記事だった。
国家と軍隊に様々な犠牲を強いられ、多くの住民が死に追いやられた沖縄戦。ふじ学徒隊は特殊なケースであった。
ふじ学徒隊を編成するにあたって、第二野戦病院の責任者、小池勇助軍医は対象となる積徳高等女学校4年生56人全員に入隊の意思を確認し、意思が確認された25名だけを看護を任務とする学徒隊として迎え入れる。個人の意思が尊重された稀な事実だ。
さて、この壕、5月になると野戦病院に運ばれてくる負傷兵の数は日に日に増え。
人工壕の中は・・・・腐敗した傷、患部の膿、垂れ流される排泄物、重苦しいうめき声だ。そのような状況のもと、学徒隊員は看護や治療にあたったのさった。
迫りくる米軍に、5月27日に第二野戦病院も糸満方面への脱出となる。撤退の時、自力で歩けない負傷兵はどこの壕でも、青酸カリを渡され、死ぬことを強要されたが、ここの島尾中尉という軍医は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く戦え」と励ましてその場を去る。


その糸満・糸洲の壕。撤退の果てにたどり着いた自然壕だ。やがて米軍に壕は知れ、催涙弾など攻撃が始まる。
6月26日、小池隊長から解散命令が出る。
「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして、凄惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」
隊長はその後、学徒隊の一人ひとりと別れの握手をし、衛生兵達も『アメリカ兵は民間人に危害を加えるようなことはしないから、安心して出て行きなさい』と勇気付けたと、彼女たちの手記に記されている。ひどい日本兵の話だらけの沖縄戦だが、少し本土の俺にとっては、ありがたい事実だった。



入ることを拒み続け、荒れ果てていた壕は、佐久市のおかげで、階段・手すりが付き、壕の入り口まで入れるようになった。
竣工式には糸満市長や佐久の市長や関係者が出席。デニーさんも列席、あいさつなどしたようだ。
この事実は、美談にしてはいけないと、皆、語ったようである。
佐久市あっぱれか!今年の、新しい出来事だった。見てこれてよかった。