館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

女房の初沖縄その1(俺はコーディネーターにしてガイドなのだった)。

2012-04-05 06:20:57 | 旅は続く


3月29日・・・・

あさ6時の急行・・浅草で、空港直行に乗り換え・・しこーきは少し遅れて飛び立った。やはり、ややすきっ腹にビールは旨い。

そうなのだ、回数重ねた沖縄旅・・「あんたばっかし行って、アタシも連れてゆけ」と、女房の初沖縄の練りに練った旅は、こうして始まったのだった。



ほとんど、数回訪ねた場所、オ サム一押しの沖縄が始まるのだった。
(新しい場所がないと、俺がつまらないので、各日一箇所は初めてを忍ばせた・・・)

いつもお世話になるタクシーS氏が空港で待っていてくれた。



驚いたねぇ・・・空港からは、新しい海底トンネルが出来ていて、58号に続くバイパスは快適、且つ、混雑を見事に緩和していた。(基地の膨大な迷惑料は、いつも道路を新しくする)



12時着・・・そのまま北へ・・・1:30頃。お目当ての読谷村・大木海産物レストランでまずお昼。朝飯が、おにぎり2個の空弁だったので、おなかはすいている。



もずくと、島ラッキョウの天ぷら。



魚のマース煮という、塩だけで煮た魚が、実に旨いのだった。



そして、ビーチ・・・そのご残波岬と、穏やかな東シナ海と、荒々しい東シナ海と、演出した。この、美しい沖縄の海で、だいたい参ってしまうのだった。
見事に晴天で、「うりずん」の風は、完璧にさわやかだった。




読谷村に来たのは、友人の娘(あかんべ山育ちの彼女は、何度も同じステージに立った)が、有名な金城窯で陶芸の修行をしているのだが、その彼女に会いにきたのだった。地元の青年と結婚して、もはや、沖縄のネーネーになっていた。やがて、アンマー
そしてオバァになるだろう・・・

写真、ゆりとユキちゃん。



金城窯の登り窯を見せてくれた。



ここ、やちむんの里は、沖縄を代表する陶芸家達が、1つの村を作っているかのようで、ギャラリーを見て歩くのも楽しい。そして、女性の観光客が断然多い。



さて、ユキちゃんと分かれて、僕の初めての場所「浦添城址・浦添ようどれ」に向かったのだった。



1200年代中ごろの話。まだ琉球が南山・中山・北山の3つに分かれ、各地に、言ってみれば豪族が群雄割拠していた時代。その中山のお話。
琉球王国が統一されるまでのまあ、日本の中世にあたる時代の、沖縄(古琉球)の歴史のダイナミズムの要地だ。首里城以前の最大の勢力、そして、中国との貿易の歴史を作った勢力の城跡である。その一角に王達の墓「浦添ようどれ」があるのだった。

見ごたえ抜群であった。



伊波 普猷さんという、明治の学者・思想家。沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したゆえ、「沖縄学の父」とも称された方のりっぱな墓もある。
琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索した「日琉同祖論」が、有名だが、中味は同調しかねる。




移動して、嘉数高台より、普天間基地を眺める。見ておくと、普天間の危険性やら、騒音に悩まされる住民など、これからもニュースになり続けるだろう「普天間問題」が良く分かるようになるのだ。

こうして、日程の詰まった初日の昼が暮れて行った。



ホテルで2時間弱、各自くつろいで、夜の街にくりだした。



竜宮通り・「小桜」。新しく、泡盛呑み比べなどやっていて、参加。



女房・ゆりに、絶品のソミンチャンプルを食べさせる。
旨いと言っていた。



その他、ラッキョウ・もずく・ミミガーの和え物・キビナゴの南蛮漬けなど、秀逸。



ゆりはホテルに帰って、女房と、ネーネーズを聴く。

こうして、1日目は終わったのだった・・・・

続く。(本日は結構長かったが・・・2話はさらに長い)
コメント (12)
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