館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

僕の育った音楽・Eの仲間達・その6・スリーピー ジョン エスティス。

2007-11-03 05:34:19 | 僕の育った音楽


シンガー/ギタリスト。戦前メンフィス・カントリー・ブルース。1977年に死去。本名ジョン・アダム・エステス。高い声を振り絞るようなヴォーカルなんだな。この人。

僕が、彼にめぐり会うのは、70年代中盤。最初にめぐり会う、カントリーブルースである。

ニューロストなどの力で、フォークリバイバルが起こり、やがて、アメリカの当時の音楽の、ルーツへの回帰や、探索が始まる。
そのムーブメントは、様々な「埋もれたミュージシャン」をも発掘するのである。
エスティスはその中でも、驚きをもって迎えられた1人である。

多分知らない方も多いと思われるので、ちと、解説。

1・スリーピー・ジョン・エスティスは、1904年1月25日、テネシー州ラウダーデイル郡に16人兄弟の7人目として生まれた。幼い時に友人の投げたものが当たって右眼を失明。
2・その頃エスティスは、昼間は百姓、夜や休日にはハウス・パーティやピクニックに呼ばれて演奏をし、小銭をもらっていた。
3・知人の紹介で、ビクターのフィールド・レコーディング班に会い、友人ハミー・ニクソン(ハーモニカ)と共に初めての吹き込みを経験したのが、1929年9月16日。
4・ビクターには翌'30年にかけて10数曲を吹き込んだが、不況によってビクターの出張録音は打ち切られてしまい、32年にはエスティスは再びブランズヴィルに舞い戻って百姓暮らしに返った。'35年、シカゴ辺りのブルースの録音がぼつぼつ盛んになってきているとの話を聞いた彼は、ハミーと共にシカゴに行き、街頭で流しのブルース・シンガーをやっているところをブルースのプロデューサーとして有名なメイヨ・ウィリアムスに拾われ、彼の手によって'40年までの5年間に約30曲をデッカに録音。
5・しかし、大戦の物資の不足と、ブルース・レコーディングの冬の時代にぶつかり、エスティスはもとの百姓暮らしに戻っていった。
6・1957年には、左目の視力をも失って全盲となった。年老いてから視角を失ったエスティスは、逆に、ブルースを歌って稼ぐ事も出来なくなり、最悪の極貧状態へと落ち込んでいた。
7・戦後62年に故郷のブラウンズヴィルで、極貧状態で全盲で再発見されて以降、相棒でハープ(ハーモニカ・ブルースハープと言います)のハミー・ニクスンとの共演を数多く録音した。
8・日本にも来日、憂歌団とジョイント・ライブを行う。その模様を収録したライブ・アルバムも出ている。あれ、持ってたのに?何処行った?(最近・ソース増えすぎで、整理が間に合っていない)

ブルース(ここで、ブルースと語ると、日本人はどうも演歌にある、**ブルースなど想像する・ありゃ、ブルースじゃ無いからね!)は或る意味「メロ」は持たない音楽のスタイルである。
ルーズで、物憂い響きと、似かよったメロディーが多いが、この方は、歯切れや、テンポの良い調子で、この方が最初・・は僕の幸福だったかもしれない(いや。不幸か?おかげで、マイナーな道がますます深くなった!)。
以降、様々な、戦前のフォークブルースやカントリーブルースを聴く事になってゆくのだ。

70年代からブームになる、「リズム&ブルース」の大物達からも、彼の影響は見て取れる。やっぱり、聴いたのだろうな・・・

「サムデイ ベイビー」・・・・・彼の当たり曲だが、オールマンブラザースなど、コピーして、バツグンのアレンジで仕立て直されていますね。

ところで、発掘第1弾のアルバム・そして、先ほどの「憂歌団」とのやつ、何処に行った!借りて、返し忘れてる人、いない?










コメント (4)
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