疎開船対馬丸記念館。乗船をイメージした建物は、なんだか、良いな。2日目土砂降りの中、タクシーで行ったが、下車すると、傘で十分な降り具合になっていた。
が・・・調べ無かった俺がイケないのだが・・木曜日は休館だった。この2日目は対馬丸記念館とその周辺の慰霊碑探索。そして、沖縄最大の色町であった、「辻」の散策がテーマだった。記念館は最終日土曜にリベンジした。他、慰霊碑や「辻」は激しくなったり、小雨になったりと呼吸を繰り返す雨の那覇の2日目の記録だ。
迫りくる戦争から、老・幼・婦女子を守るべく県外疎開の指示が出される(軍は、足手まといは県外に出し、沖縄全体を戦場と化し、戦争を引き延ばそうと意図する)
1944年8月21日、18時35分、疎開船対馬丸は、台風接近による激しい風雨のなか、那覇港を出港する。
他、暁空丸・和浦丸の2隻の疎開船、疎開には軍艦の投入を要請の声もあったが、あてる余力は無く、駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」が護衛。対潜水艦には不十分なものであった。
アメリカ海軍は暗号解読によって予定航路を把握していた。
魚雷命中から11分後、対馬丸は大爆発を起こし沈没。鹿児島県悪石島付近が、沈没地点だ。他の疎開船、駆逐艦、砲艦はその場の救助を行わず、次の攻撃での犠牲を恐れ、危険水域から姿を消していった。数日後に目的地長崎港に着いている。
対馬丸事件から80年の節目の年が今年である。
いかだや漂流物にすがり付き、生き残った者はわずか。対馬丸の生存率は学童7%・一般
14%・軍人48%・船員72%とする資料もある。軍からかん口令が敷かれるが、事件はたちまち知られることになる。
幼き学童たちの遺族の思いが、この記念館になり、亡くなった学童たちを中心の展示が行われている
この事件後10月10日には、「10・10空襲」があり、県都那覇は焼け野原になる。軍や行政は一般人の犠牲を減らしたいと、県外疎開・県内北部疎開を推し進めるが、この対馬丸事件は、住民の疎開への不安となって、結果的に島に留まる人が多く、10万を超える砲弾での犠牲を生むことになった。
3度目の来館だったが・・・自分の学びの深まりもあるのだろうか?受ける印象は、深くなっている。「あそこは1度行きました」で済ませてはいけない、沖縄の学びであった。
パンフレットの写真より・・・学童と束ねてはいけない・・・1人1人、生きた時間も名前もあった。
記念館の建つ、小高い丘・旭ヶ丘公園には多くの慰霊碑が建っている。
これは、まさに対馬丸の犠牲となった「学童」たちの慰霊碑「小桜の塔」だ。子供たちの慰霊碑が無いと、造られたと言うが、確かに軍人たちの慰霊碑は、いらないほどあるが、子供たち・・はほとんどないかも?
小桜の塔の奥の高みに「海鳴りの像」がある。沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は26隻。海なりの像には、対馬丸を除く25隻の船舶で犠牲になった県民1927人(沖縄県調査)の慰霊の像だ。
小桜の塔の手前にある「戦没新聞人の碑」。沖縄戦で亡くなった新聞記者ら14人の名前が刻まれた「戦没新聞人の碑」がある。 新聞労連沖縄地連の真栄里泰球委員長が「戦没新聞人の碑が反戦、非戦の碑であることを確認したい」とあいさつした。と、記事があったが、戦意高揚・・加担では無かったか?
慰霊碑がおびただしい数である沖縄。そのほとんどが「2度と戦争を繰り返してはいけない」と、平和の希求が刻まれている。何度もそんな碑を眺めながら、僕はいつもある種の違和感を感じている。日本の仕掛けた侵略戦争だったあの戦争。犠牲のほとんどは神風日本が勝つと信じ、加担していたのではないか?加害者としての自覚があって、犠牲を憂い、2度と戦争は起こすまい、平和が大事と、刻んでこそ碑が時代を貫いて存在する価値があるのではないか?被害者意識のみで、かの戦争は語ってよいものでは無いだろう?それが、僕の違和感だ。
記念館から歩いて3分?フライトまで2時間しか無いあなた!1時間は泳いで、空港に行っても間に合いますよ・・の呼び声高い「波の上ビーチ」がある。
10月でも結構泳いでいるし、かき氷屋なども出ています。トイレもシャワーもあります。(人工ビーチだけど・・無料だったかな?)
この記念館界隈は、清朝から庇護を受けた琉球と、その清朝から渡ってきた文人・行政官・政治顧問・技師など、琉球を支えた中国の人々が住んだ界隈だ。
そして、沖縄最大の花街だった「辻村」があった場所だ。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれた。
琉球王国において中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。琉球の花街として明治期まで存続した。
1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。
ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親)を中心に、疑似家族を構成し、厳然たる女性社会だったようである。
写真は、当時の美しきジュリ達といわば浅草の「吉原神社」のような場所。
今は、辻界隈は、怪しいソープ街や、ぼったくられそうな(確実に)バーやスナック街だ。
沖縄には14世紀の終わりごろにやってきたという閩人(びんじん)三十六姓(先の中国からの方々)とともに、「航海を守る天妃」を祀る信仰が伝わったようだ。那覇には、かつて上天妃宮・下天妃宮の二つがあったが、現在は上天妃宮の石門だけになる。
ここは、戦後、あの瀬長亀次郎が那覇市長だった時代、那覇市役所があった場所・映画にも出てきた場所で、1度は見ておきたかったのさ。
こんなのもある。沖縄の中の歴史ある中国福建省だ。沖縄は近世ずっと琉球で、清朝の恩恵の中、国を富ました。日本に併合されてから、苦難は21世紀の今も続いている・・・70%以上もの基地を引き受けながら・・・果てない苦難の中だ。