昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

僕達が抱き合うとき

2012年09月23日 | ファンタジア

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お互いを求めているにもかかわらず、毎日、二人でいるわけにはいかない。
一週間に3~4日のウイークディが僕達の時間。
しかも閉ざされた場所での時間。

本当は毎日会いたいし、触れていたいし、話をしたいし、日々の出来事を共有したいし、時間はいくらあっても足りないのだ。

僕の場合は、会社の世界、子供たちの居る週末の家の世界、そして、ウイークディの君との世界の3つの世界を歩き回っている。そして、各々の世界での、それぞれ、特有の役割がある。

今、考えると、よく3つの違った生活をやってこれたものだと、自分自身にびっくりする。若さと、バイタリティのたまものだろう。

君との世界は、僕のすべてのエネルギーの源。これが無かったら、きっとほかの世界もうまくいかなかったのだと感じる。生活の根っこだったのだと思う。

ある日、君は僕と同じサイトから アジア本社に転勤になった。
だから、もう昼間の休憩時間とか、廊下でばったりあって手を挙げて楽しい気分になるとかが無くなった。気が楽になったという面もあったのは事実だが、コミュニケーションの量ががくんと減ったことは確かだ。

君の方が朝、出かけるのは早くなったから、横浜のマンションのベランダから見送るのは僕の方になった。運河に柳の木の連なる小道を君は、東横線に乗るために歩いて遠ざかっていく。
もう見えなくなりそうになったら、大きく手を挙げてさようならを伝える。

夜も、僕はたいてい残業で、飯は会社のカフェテリアで食べてしまう。
君は早く帰れれば、家で食べていたけれど、二人の夕食は本当に少ない。
僕が帰る時間には、もう君は食事を終えて、シャワーを浴びて、ナイトキャップ…と少しアルコールが入っている。

1日中会えなかった二人は、お互いを引き寄せてキスはするが、疲れているからかなかなかSEXまでいける時間もない。でも、気持ちはある。なんだか、欲求不満。

愛するものにとって、一番深いお互いの確認、自分のリラックス、自己解放、感情的充足のためのSEXなのだけれど、必ずしも、その通りには実行できないわけだ。

僕が遅い時には、いつもの二人の寝室の6畳の部屋に、僕と君の布団が敷かれて、薄暗い灯りで君は眠りこんでいることもある。
僕も疲れているから、職場という世界から、君との世界の切り替えにはアルコールの力が必要だったりする。

考えてみると、僕は毎晩のんでいた。
外で飲むことは車だからないのだが、横浜のマンションに車を入れて、シャワーを浴びたら、ほとんど毎晩ウイスキーをロックにして飲んでいた。

起きている君が相手をしてくれることもあったし、東京通勤でしかも、英語で仕事している君は疲れ果てて、僕を待ちきれないで右側の布団で眠り込んでいる事だったあった。

僕にその気が起きると、君に触りたくなる。
どうしても深いところで、君を感じてみたいという欲望がフツフツと湧き上がってくることだってある。君を起こすけれど、なかなか目を覚まさない。

僕自身が元気な時、君に入り込めそうならと、君をまさぐる。
激しくはぬれては来ないけれど、指がぬれるくらいの蜜液が出てきたら、僕はコンドームをはめて、君の中に入り込んでいく。

君が目覚めて、応えてくれることもあるけれど、疲れすぎていて、僕だけで行為が終わってしまうなんてこともあるわけで、そんなときは空しい。

時には、僕が疲れすぎていて、SEXの後、そのまんま君の腰に僕の体重を預けて、そのまま寝込んでしまうことだって結構あった。僕の体重を感じながら、君は寝ていたわけだ。

ある時、いつものように君の中に入ったまま寝ていた。
ふと目が覚めると、僕の腿がぬれている。アッと思った。
コンドームのまま君の中にいたから、僕の液体が流れ出していたのだ。

この時はあわてた。乱暴に君を起こした。そしてビデに行かせた。
僕達は、決して二人の子供を間違っても作ってはならないと、僕は思っていたからだ。

僕自身には、コンドームの抜け殻がくっついていた。

二人は、複雑な思いで、翌朝を迎えた。
それが、その時の僕たちの現実だった。
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消えゆく横浜、消えない記憶

2012年09月09日 | ファンタジア

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横浜は急速に変わりつつある。

それは、横浜のおおかたの市民にとって、当たり前で、素晴らしいことかも知れない。
横浜がモダンなイメージで、観光客や国際会議を誘致し、世界一のエリザベス二世の入港をも獲得したり、良い事づくめのようでもある。
今はもうとっくに大阪を追い越して、横浜は340万人の住む、日本で第二の大都市でもある。

ピッカピカのみなとみらい21。
日本で好印象のホテルランキングの1位と2位に、横浜のみなとみらいのホテルが選ばれたとある。素晴らしいことだ。

そういう意味では、1961年に基本構想を立案した、その時の横浜市長の先見の明が賞賛される。

さらに、何度かの中断や、環境の変化にもかかわらず、やり続けてきた担当者たちの頑張りには頭が下がる思いだ、ほんとうに。
日本で、これだけの長い間、50年もかけての都市改造は例を見ない。飽きっぽい、忘れっぽい日本人のプロジェクトとしては秀逸でもある。

最初のランドマークになったホテルも、今も美しい帆船だし、横浜ベイブリッジも、東京のレインボーブリッジのようなゲテ物趣味ではない、機能美からくる美しさがある。それは、間違いなく正しいやり方だと思う。

しかし、僕にとっては、それは大切な風景が、スポットが、どんどん消えていくことでもある。ある意味では、それはとても淋しいことのように映る。

たとえば、伊勢佐木町の衰退、6丁目なんかには人影も見えない。
僕が大学に行っていた頃から、あれほど人を集めていた伊勢佐木町のとっぱずれの蟹の愛知屋さんも、客の数が減ってさびしそうな感じ。
君と歩いて、高いけど、うまい蟹を食べに、関内駅からあんなに遠くまで、何度も足を運んだのが不思議なくらい。かなり飲んだ時の帰りの二人は、フラリ、フラリと伊勢佐木町を関内駅まで逆戻り。こんな店には、頑張ってもらわなくては…。

さらに、さびしいのは元町の普通化。もう先は横浜・元町にしかない店たちと、人々と、空気と、風景があった。しかし今は、そんな元町を思い出させてくれる店は10軒にも満たない。元町も、何処にでもある、特色のない商店街になってしまった。いくら、車道をカーブさせて、スピードを落とさせたり、パークスペースを作ったり、花壇を作ったりしても、肝心の店がオリジナリティを失っては、元町の意味がないわけだ。

もともとは、山手の外国人たちとの商売が、店の種類を、品ぞろえを、雰囲気を決めていた。
たとえば、中古の家具屋さん。ほかのところでは目にすることのできない外国製の中古の椅子があったりして、オリジナリティが、その存在を自分自身で主張していた。ユニオンでしか手に入らない外国の食料品があった。でも今は、どこにでもあるスーパーになって没落していっている。
元気なのは、naka-yaさんだけかもしれない。

まあ、客足が遠のいたのは、みなとみらいに三つもショッピングモールができて、雨でも、雪でも、風でも、かんかん照りの極暑でも、快適に買い物ができる商売敵がそろった為だろう。何とか、頑張ってもらわなくてはつまらない。

横道にそれるけれど、神戸の元町は、昔の店たちが、元気でオリジナリティあふれる店づくりで、頑張っている。うれしいことだ。

こんな横浜にも、まだ懐かしい風景があるのを書いてみたい。
君と何度か行ったことがある、ノースピアの瑞穂橋のたもとに立つ、昔ながらのバー、ポールスターとスターダストだ。

1960年代、ノースピアに接岸するアメリカ軍の兵隊さんがたくさん集まった、由緒正しいバーたちだ。
店では、今も機械式のEPレコードを扱うことのできるオリジナルのジュークボックスがる。懐かしい。
ジュークボックスを知らない若者もいっぱいいるに違いない。もう死語かも。

港があり、酒があり、そして女がありの感じの、いわゆる港の風景を楽しむことができる。
これらも無くなってもらってはこまる僕の中の、君と一緒の頃の心象風景だ。

第一京浜を東神奈川で、海の方に曲がって、貨物船の線路を超えて、その先の瑞穂橋のたもとにある。
一応、その先は関係者以外、立ちいり禁止になっている。

タバコの煙が気にならなければ、ふらっと入ってみるのもいいだろう。
僕には、君との時間がジワリと蘇ってくるのだ
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