昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

深夜の疾走

2010年06月27日 | ファンタジア
 永い夜だった。僕はFの君のアパートで一人、君の帰りを待っていた。君は飲み会かなにかで、その夜、夕食を外で摂るといっていた。
 僕は一人でワインか何かを飲みながら、君の帰りを待っていた。

 電話が鳴りだしたの夜8時頃だったと思う。そこには君しか住んでいないはずたったから、男性の僕が代わりに出るわけにもいかない。君からの電話は暗号が決めてあったからわかるようになっていた。君からではなかった。

 執拗に電話は鳴った。最初は30分に一度くらいだったのだが、その間隔がだんだん短くなってきた。

 きっと急な用事に違いないと僕は思い始めた。かけてきているのが誰だか分からない。女性なのか、男性なのか。

 気になるから、一度だけ出てみることにした。
 受話器の向こうから、「○○ちゃん?」と女性が話しかけてきた。焦ったような感じだった。僕は、「いえ、違います」と言って即座に電話をきった。まちがい電話のように事務的に答えた。要件を聞くわけにはいかなかった。

 Fの君のアパートに僕がいるなんて知られたら、きっといろいろ大騒ぎだ。

 電話はその後も間隔をおかずに鳴りっぱなしになった。僕自身が落ち着かなくなってきた。何か悪い知らせではないのか? 何か君のうちで急な用事が起きているのではないかと思い始めた。電話が鳴るたびに、その思いが強まっていった。
 「ワインなんか飲んでる場合じゃないかも…」と、外出の支度をして君の帰りを待った。

 君が帰ってきたのは、もう深夜を過ぎていた。電話が鳴りつづけているよと告げるひまもなく、電話がかかってきて、君がでた。
 きみは急に厳しい顔になって、「母が…。病院に行かなくっちゃ…」と言った。

 僕の心配は本当になった。僕は、「車で僕が送っていく」といった。それが一番早いと思ったからだ。道はよく知った一本道だ。

 駐車場について、僕は自分が少し酔っ払っていることを知ったが、そのまま走り始めた。

 深夜だから、交通量は少ない。違犯を承知でスピードを出した。お巡りさんに捕まったら、事情を話してゆるしてもらい、何とかして君を早く危篤状態のおふくろさんに会わしてあげようと覚悟した。

 いくら急いでいても、信号無視は事故を起こすと考えた。赤信号で反対車線を走り、信号待ちをしている車達の先頭に入り込むことを思いついて、実行した。時には、クラクションを鳴らされることもあったが、無視して、いくつもの信号をいちばんで走り抜けた。

 おそろしい運転だったことははっきり覚えている。信号から信号の間は目いっぱいアクセルを踏んでいた。FからO間は、25キロぐらいだ。とにかく、前へ前へと車を進めた。

 君はじっと前を見つめたまま殆ど無言だった。

 何とか無事にOの病院に滑り込んで、君を降ろした。じゃあと君は言って病院に駆け込んでいった。やっとほっとした。

 僕は、疲れていたのと、君が心配で、病院の玄関が見える位置に車をとめた。もう運転するのもいやだった。夜中の病院には、けっこう人の出入りがあった。

 その夜はそのまま眠ることなく、車のなかで体を伸ばして夜の明けるのを待った。

 間に合ったのかなあ…と、君からの連絡をFのアパートにかえって待った。君からの電話がきた。ちゃんと間に合って、見送ることができたと知らせてくれた。そして、涙声でありがとうといった。

 会社に出ると、君のおふくろさんが、病気でなくなったという知らせが回ってきた。僕は告別式に出席する公の関係にはなかったから、みんなと一緒に香典を包んだ。

僕にとっては忘れることのできない、君との夜の疾走だった。


写真はフリー素材の足成より、お借りしました。
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見舞い客の来ない入院

2010年06月14日 | ファンタジア
 交通事故のとき、救急車で連れて行かれた病院は、横浜の僕の建てた家からも職場からも近くて、入院中見舞い客が絶える事はなかった。
 逆に言えば、みんなの目がいつもあって、君と親しく話すことも、触ることもできないという極度の欲求不満を感じていた。君だって同じだったと思う。

 手術のときは、上腕と尺骨に金属のプレートを入れて、それぞれ二枚で骨を挟んでボルトで固定した。中関節から、尺骨にかけては同時に、金属の太い針金のようなものが入っていた。最初の手術のときの先生に、2~3年たったら、検査して、骨が育っていたら、それらの金属を取り外すと言われていた。ずっとそのままではまずいと言われた。その頃の金属の材料は今のものと違って、そのまま放置できないものだったらしい。

 僕は最初に執刀してもらった先生にやってもらうのが一番安心だと思っていた。二度目にまた腕を切ってプレートとボルトを取り出すのさえイヤだったのだから、安心が一番だと思っていた。

 でも話は変な方向に行ってしまった。
 その頃は、もう君とのことがカミさんにばれてしまっていたから、カミさんは君のアクセスが良い前の病院への入院は反対だった。そして、そこに隣の家から親切なお節介の助言がでてきたのだ。僕とカミさんは、本当は常にいさかいだらけだったけれど、子供たちのこともあって、ご近所には仲の良い夫婦のように振舞っていた。

 だから、お隣さんが、川崎のNK病院に腕の良い整形外科の先生がいるので、紹介しますよと言われれしまったときも、いい夫婦でいるしかなかった。カミさんの意向も強くあったし、僕は断れなかった。

 そんなわけで3週間の予定で、僕は川崎の京浜工業地帯のど真ん中にあるNK病院に腕の金属を抜き取る手術のために入院することになった。

 手術自体は、単に上腕の皮と肉を切って、ボルトを緩めて金属のプレートを取り出すだけだったから、時間は掛からなかった。問題はプレートをはずしても、上腕の骨折がうまくくっついていて、右腕全体の筋肉の引っ張りや、腕全体の重さ、瞬間的にかかる可能性のある外的な力に対応できるかどうかだった。

 開けてみた結果では、骨は割れた所を新たな骨物質が補強し、充分な丈夫なものに育っていることが分かった。それを知らされたとき、やっと僕は、あのN510とのさよならの事件にさようならができると思った。うれしかった。

 でも取り出された上腕のプレートを見るて驚いた。厚さ5ミリくらいある、光った金属のプレートが真ん中から少しくの字に曲がっていたのだ。
 先生によると、砕けた骨は腕の動きに抵抗できないので、そのプレートが骨の代わりになって腕の動きに対応してくれた結果、曲がったのだという。そうか、このプレートが僕を本当に自由にしてくれたんだと、そのプレートが輝いて見えた。先生は記念に持って帰りますかと言われたので、僕はその大切なプレートとボルトの何本かを貰った。
 後で僕の骨自体を触ってみると、上腕の骨がくの字に曲がっているのが分かった。

 中関節と尺骨の金属の針金は、簡単に取れた。しかし、心配していた大きな問題がやはり起きていた。中関節が、手のひらを上にしたり下したりする回転が出ないのだ。骨折で中関節が壊れ、そのまま固まったから回転ができないのだ。中関節の針金を取れば回転がでると思っていた僕は、ドンと突き落とされた感じがした。

 人間の体で回転の必要な関節は、この中関節しかないのだ。それが壊れたということは、右手を手のひらが見えるようにクルクルまわすことができないという大きな問題を残したのだ。僕の右手の角度は、救急病院で、そこの担当医が、まさかの可能性を感じて付けてくれた中関節に対して一定の角度で固定されたままなのだ。ちょうどペンが持てて、字が書ける角度だった。それ以外の角度には動かなかった。

 中関節が動くようにする関節内部の手術を受けることにした。ただ先生は、回転を取り戻すのはかなり難しいとおもいますが…といわれた。要は、ダメモトだと最初から覚悟した。手術は比較的短い時間で終わった。すべての縫合が終わって、あとはドレーンというパイプを傷の深いところに取り付けて無駄な血を排泄することになった。これが終わらないと、完全な縫合はできないのだ。

 それから、2週間、僕は活発には動けないけど、痛みもない、普通の人間として入院生活を送っていた。他の人は僕の中関節が壊れていること、僕の右手が不自由になるかもしれないってことは知らない。僕は、治れ治れと、祈りながら内緒でリハビリを自分でしていた。

 君は見舞いには来れなかったし、会社の同僚達も僕が単に金属を取り除くだけの安全な手術だと知っていたから、遠くまでは見舞いに来なかった。誰ひとり来なかった。カミさんはもうその頃、僕の勧めで神田に仕事を見つけて通勤していたから、週末にチビを連れて週一で顔を見せるだけだった。

 何もやることがなかったから、久しぶりに人間ドックでもやりますかと、ドクターが勧めてくれた。良いアイデアだとそれを受けた。もともと、僕の心臓は肥大型の心筋症だとは慶応で調べてもらっていたので知っていた。だけど、発症していなかったので、睡眠時間をよく取るこという程度の注意だけだった。

 ところがNK病院で言われたことは、予想だにしてなかった。僕も、見舞いに来たカミさんも循環器の先生から忠告を受けた。持病の心臓に負担をかけるから、激しい運動、性行為は控えろというものだった。

 カミさんとは実質、同居別居だったから、セックスなんかしていなかった。カミさんは、君とのが激しいんではないのと嫌味をいった。でも、それは僕にとっては発見だった。君と僕とはおとなしい静かな行為をしていたから、問題はなかった。

 傷がいえるのも待たずに始まったリハビリでも、僕の利き腕、右肘の関節は容易に回転しなかった。

 これは、一生、背負って行くしかないかと考えながら、京浜工業地帯の夜景を眺める毎日だった。そして、食事もネクタイを締めるのも、みんな左手一本で出きるように密かに訓練を始めた。もう僕の右手は、利き腕ではなくなったのだ。


<この写真は、flickrからsugawaraさんの“京浜工業地帯”をお借りしました>

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