昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

やってきたギャラン

2009年09月21日 | ファンタジア
 事故の骨折・入院・治療から退院の時期が見えてきて、最初にやったことは、とにかく手頃ですぐに乗れる車を手に入れることだった。

 突然のN510との別れだったから、次の車なんて考えてもいなかった。そうかといって、日産の510の後継車たちは僕にとって全く魅力がなかった。
 ギブスをつけたまま、散歩や外出の度に病院近くの中古屋さんを見て回った。でも、なかなかピンとくるものがない。

 その頃のトヨタの車といったら、飾りばっかり多くて、機能性に対する意気込みは全く感じられなかった。どうでもいい車を、次から次へと出してきては、モデル・チェンジで金をもうけていたように見えた。車作りに良心がないのではないかとさえ、僕には思えた。
 それに僕がヨーロッパにいた頃、ヨーロッパのメーカーに研修に派遣されてきていたトヨタのエンジニアが、トヨタ車はまだまだヨーロッパ車にはブレーキ、一つだって技術的にかなり後れているって言った言葉が強く印象に残っていた。

 ホンダはシビックを作り出したばかりの頃で、楽しそうな車だったけれど、一家4人と犬一匹を乗っけてスイスイ走る車とはいえなかった。エンジンも小さすぎた。そうかといってアコードは本当に出たばかりで、中古車はほとんどなかった。しかも、ホンダ車に対する評価がまだ確立されていない頃だったから、選択肢から外れた。

 マツダ車には、初代ファミリアで懲りていた。トラブルの続出だった。怖い思いをしたことは数え切れない。
 一番怖かったのは、まだカミさんとの仲が普通だった頃、伊豆の下田まで出かけたことがあった。そのとき、東伊豆の今井浜あたりで、アクセルが戻らなくなったことがある。
 アクセルが戻らないってことは、アクセルを踏み込んだら、そのまんまスピードが落ちないって事で、間違いなく事故を起こすということだ。近くにはマツダの修理屋なんて見当たらない。今のJAFなんてサービスはなかったころだから、結果としては下田まで、その車を転がしていかなくしかないってことだった。

 アクセルが戻らなくなったらどうするかといえば、運転している最中にエンジンを切って、ブレーキングをしてスピードを落とし、ギアをセカンドに入れて再度エンジンを回すという作業の連続だった。

 カミさんは今井浜で車からから下ろし、電車で来てもらった。そして、僕一人で冷や汗を掻きながら、崖とカーブの多い東伊豆の道を走り通して、何とか下田のマツダに辿り着いた。調べてもらったら、アクセル・ケーブルの潤滑油が切れて戻らなくなっていた。ディーラーの整備の原因だったのかもしれないが、とにかくもう決してマツダ車には乗らないと決めていた。

 そうなると、他には三菱しかなかった。その頃、ギャランはちょっと評判となっていた。試してみようかと心が動いていた。2リッターはほしいなと思っていたが、1.8の在庫があった。

 問題は、右手のギブスの中に隠れている僕の腕の機能が、どこまで回復できているかにかかっていた。もし右手が自由に使えないとすれば、車を運転するなんてことは全く絶望的だ。全てはそのギブスの取られる日に決まることだった。特に、複雑骨折している肘の関節にかかってた。
 
 ○駅近くのアパートでの君との時間と、横浜での子供たちとの週末を持ち続けるのには、どうしても車が必要だった。僕は願うしかなかった、先生が良い腕であるようにと…。僕のできることは、右手の指たちをしょっちゅう動かして、運動機能の低下を防ぐくらいしかなかった。

 ついに、石膏のギブスに回転鋸があてられる日になった。ビュンビュン回転している刃を見るだけでも怖かったのだが、でもやはり現実を知るほうが怖かった。回転する刃が、ガリガリとギブスを切り裂いていく。裏と表側に切り開かれて3ヶ月ぶりに僕の右腕が出てきた。中関節の動きは悪かったが、上腕も尺骨もちゃんとくっついていた。本当によかった…。

 リハビリテーションで、中関節を中心に痛みをこらえながらの運動機能の回復の時期が始まった。でも、子供たちの顔も、君の心も、やっとほっとした感じで、とんでもない時間の終わりが見えてきた。

 こうして、近くの中古屋さんから僕の5代目の車、510に変わるギャランがやってきた。やっと今までの生活が確保できたわけで、本当に明るい日が来たという感じだった。因みに、Galantとは「勇敢な」という敬称で、力強い車だった。

<この写真は、Wikipediaから、借用しました>

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