夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

興味深き作品 享和癸亥 浅絳山水図 釧雲泉筆 享和3年

2021-11-19 00:01:00 | 掛け軸
書斎のクロークは棚の設置を除いて、とりあえず完了しました。



家内は息子の寝室と考えている・・・???? 息子もちょうどよいベットと思ったらしい。さて残りは屋根裏改造構造・・・????  書斎のクローク完了と共に室内で鼠が発生してらしい・・??? 屋根裏に元々いたのかどうかは不明・・・、撃退作戦開始



さて本日の作品紹介ですが、南画は当方のメインの蒐集対象ではありませんが、南画の作品は贋作・模倣の巣窟のようです。その中でもとくに当方で僅かばかり蒐集してきた釧雲泉、桑山玉洲、富岡鉄斎などにも手を焼いています。かえって今少し著名でない南画家(天野方壺、野口介石など)のほうが安心して蒐集できますが、懲りずに当方では継続的に怪しき作品を購入しています。



享和癸亥 浅絳山水図 釧雲泉筆 享和3年
紙本水墨淡彩 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1950*横690 画サイズ:縦1260*横530



南画は山があって、滝があって、小さな家があって、川があって、木や竹があってと・・・どうもワンパターンですね。 



浅絳山水図としての出来はいいでしょう。遠方の山の描き方は一応熟練の技です。この描き方は本物に多いものです。



寛政年間から文化年間への釧雲泉の画風の移行時期としての観点からは画風にとくに違和感はないようです。



ただし、寛政年間から文化年間への釧雲泉の画風の移行時期として若い頃の自由奔放さは消えてきて、晩年の重苦しい画風が見え始めているように感じます。



ある観点からみるとありきたりの南画・・??? この点が釧雲泉の変遷期の特徴でしょう。若い頃は構図が大胆ですが、絵自体は清らかな感じですが、後半は絵の構図字体からは大胆さが失せますが、絵自体は近代南画の基のような作となります。この点はこの移行時期に中国の絵画の影響を受けている点を見逃せませんね。



賛には「癸亥(みずのとい、きすいのいのしし、きがい)新春十一日寫于 退鋒?亭」とあり、享和3年(1803年)新春に描いた作となり、釧雲泉が43歳の時の作品と推察されます。



この頃、釧雲泉は享和2年(1802年)に江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住しており、儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わり、またちょうどこの頃に結婚したと推測されており、この当時の作と思われます。

 

当方の蒐集には同年の記載のある作品が他に2点あり、それらと比してみましょう。

まずは下記の作品は天袋用に制作された作品ですが、天袋用に制作された作品のような作品は資料にはあるようで、扁額作品に仕立てられた作品は珍しいと思います。

本ブログへの愛好者からのコメントより大正2年6月9日の売立目録「長井越作氏蔵幅第一回入札」に、扁額の作品として掲載されているものと恐らく同一作品とも考えられるそうです。

秋渓蕭散 釧雲泉筆 享和3年(1803年)
水墨金地紙本 「まくり」→「額装 タトウ」に改装 
画サイズ:縦220*横370*2枚



賛には「秋渓蕭散(ものさびしい)」とあります。さらに年号については「癸亥(みずのとい)重陽写寫干波懐楼 雲泉樵人就 押印」とあり、本日の作品と同じく享和3年(1803年)釧雲泉が43歳の時の作品と推測され、さらに本作品より後の9月頃に描いたと推定されます。

左下写真が「秋渓蕭散」の賛と落款・印章で、右下写真が本日の作品「享和癸亥浅絳山水図」の賛と落款・印章です。「秋渓蕭散」は真作に相違ありませんが、本日の作品はより詳しい調査が必要でしょう。

 

次の作品はまったく同じ日に描かれた?と推測される作品です。蒐集するとこのような作品が揃ってくる・・???

享和癸亥 夏景山水図 釧雲泉筆 享和3年
本水墨淡彩 軸先木製 渡辺華石鑑定箱 帝国書画交換所真蹟保証書在中
全体サイズ:縦2220*横665 画サイズ:縦1380*横520

 

左下写真が「享和癸亥夏景山水図」の賛と落款・印章で、右下写真が本日の作品「享和癸亥浅絳山水図」の賛と落款・印章です。落款の書体は同一人物のようですが、印章は各々違いますね。

描いたのは同一の場所? 画風が同じ・・???

 

両作品を並べてみました。両者真作か、はたまた両者贋作か・・。書画の蒐集が深みに嵌ると? こういう似たような作品が手元に集まる点も面白いもので、当方はますます怪しき境地に入り込んでいくようです。



真作なら同時期に描いたと推される作品、この作品は夏景と秋景という単なる双幅的な関係ではなく、おそらくどちらの方向へ画風が向かうのかという対比でみるべき作品ではないかというのが当方の推測です。



当方の推論では間違いなく同日に描いた作行の違う作品であろうと思います。ともすると片方、もしくは両方に贋作の疑いの掛かりがちですが、釧雲泉には同じ頃、もしくは同日に描いた作品に、同一の賛で印章は別々を押印したこのような作例が幾つか見受けられる。とくに画風の変遷期・中国の大家の作例を倣った享和年間の作例に多いと思われます。

当方の所蔵作品でも「享和壬戌 秋山水図 釧雲泉筆 享和2年(1802年)」、「享和壬戌 秋江山水図 釧雲泉筆 享和2年(1802年)」の2作品において同じことが解ります。共に「倪 瓚(げい さん、1301年~1374年)」を倣った作品と推測され、この「倪 瓚」は元末の画家で、元末四大家の一人に挙げられていますが、まったく異なった作行の作品を描いています。これに倣った可能性があります。

 

享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住し、儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わっており、この交流においてかどうかは知りませんが倪瓚の作品をどこかで見て影響を受けたのであろうと思われます。



「夏景」の作は若い頃の画風に近く、清新な感じがします。



「夏景山水図」には渡辺華石の鑑定箱書が添えられていますが、渡辺華石の鑑定箱書はどの作品でもそうですがあまりあてにはなりません。

 

どちらの作がお好みかは人によって違うでしょうが、このような比べ方は真贋に限らず蒐集する者にとっていろいろと想像力が働きます。



この作、この日を境にして釧雲泉の作品は作風が変わってのかもしれません。いったい何が起きたのでしょう・・・?? 

若書きの寛政年間や重苦しい雰囲気とされる文化年間の比較に区別されて注目されがちな釧雲泉の作品ですが、過渡期とされる享和年間の釧雲泉の作品も注目に値するようです。



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