勝ちに行って勝った事もあれば負けた事もある。でも1番芯から嬉しいのは、勝ち負けにこだわらず、芯からの自分で勝負してしかも勝ちまで付いてきた時。こんな事はそうそう何度もない。そして、勝ち負けだけいうてる人が芯からの人の純情を踏みにじりる。俺は負けても、芯ある人と共に生きたい。
選ぶためには分類する能力が必要になる。この分ける能力は確かなものだろうか…。また分けて見るためには比べる必要がある…。不必要なものまで比べていないか?(小泉吉宏『ブタのみどころ』p45「分けるチカラ」より) #butatsubu
みんなー今日も一日お疲れ様なっしー♪ヾ(。゜▽゜)ノ日々頑張っているみんなに癒しのふなっしービーーム!
嫌な事吹き飛ばして明日も前に進むなっしー♪
おやすみなっしー♪ pic.twitter.com/JAHKEslg2A
ここで語るとすぐに「何かあったんですか?」とか言われる。語る事が寒いんか?信じられへん。そんな時代と言うのなら、また俺は逆行します。語って笑って語って笑って、そして前へ!これやろ。
個人的な偽りのない意見を呟いただけで袋叩きにあうこのSNSの悪い部分を垣間見た!
この便利なツールを使ってもっと友好的にかつ有効的に使えないものだろうか?
僕が叩かれる事を嘆いてるのではなく、他の意見を聞く事が出来ない事に嘆いています。
色んな感情がある方が健全♪(´ε`
人質事件、テレビの報道は過熱してて、あらゆる映像を垂れ流しているんだけど、ドラマではそんな様子を想起させて苦情がくるのが怖いという理由でシーンを差し替えるのが当たり前になってて、いったいこれはどういうことなんだろうと、ふと、そんなこと考えてしまう時があるよ。なんなんだいったい?
津波の時もそうだった。ニュースではひたすら津波のシーンがオンエアされてて、それなのに映画でそのシーンがあるとNGだといってみんなで禁止禁止と騒ぐ。だったらリアルな津波の映像流すのやめるのがいいんじゃないかと思ったり。リアルはOK、フィクションはNGっていったい誰が決めたんだろう?
ヒ素はどういう効果があって、どうやったら人が死んで、どんな入手経路があるかをニュースで事細かに報道して、それを見ていた人がヒ素を手に入れて犯罪を犯したことがあったけど、報道への批判は封印された。ところがフィクションで毒殺はNG、みたいになって。もっと、見る側の自立を求めようよ。
人は他の人の情熱を、まずは奇異に感じるか軽んじる。それは自己投影が効かないからだ。感情移入(異質なものへの共感)の段階に進むことは稀である。こうして人はなかなか目前の事実を認めることが出来ない。