大多喜町観光協会 サポーター

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小説 本多忠朝と伊三 27

2011年03月02日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

      

本多忠勝     画像提供HP     本多忠朝

 

市川市在住・久我原さんの妄想の入った小説で~す 

第2部  忠朝と伊三 27

 

 

これまでのお話 1~26 は コチラ

伊三が風邪で三日寝込んでから、およそ一カ月がたった二月のある日。
 寒さが緩み、国吉原の田んぼの周りには黄色い菜の花がポツリポツリと咲いている。その菜の花を摘むサキとホリベエの姿を伊三はぼんやりと眺めている。
(サキはキヨに似てきた。)
 あの三日間の夢の中で、キヨがサキになり、サキがキヨになった事を思い出し、伊三は胸が締め付けられる思いがした。伊三はホリベエがサキと仲良く菜の花を摘む姿に嫉妬を覚えていた。キヨが生きていれば、、、二人の姿を自分とキヨの姿に重ね合わせた。
 そんなことを考えているとは知らずに、サキとホリベエが伊三のところにやってきて、
「おとう、あったかくなってきたな。ほら、こんなに採れたよ。今日の晩のおかずだ。」
と、伊三の目の前に菜の花を差し出した。
 サキは長田の妻、きよから菜の花をゆでて、醤油につけて食べる方法を教わってきたので、伊三にも食べさせてやろうと、この日は菜の花摘みに伊三を誘い出したのであった。風邪をひいて寝込んでから伊三は元気がない。もともと口数は少ないが、丸一日、黙っている事もあってホリベエとサキは心配していたので、春の陽気に誘われて元気づけようと伊三を外に連れ出したのであった。
「こんなもんが、食えるのか?」
 伊三は菜の花をじっと見つめた。
「ああ、長田様の奥方様に料理の仕方を教えてもらったけど、おいしいよう。」
「そっか。楽しみだな。」
・・と言う割には伊三の顔は全く楽しそうではなかった。風邪はすっかり治っているが、なぜか伊三のこころはすっきりとしない。あの三日間の間に見た夢が気になって仕方がなかった。特に忠勝の悲しそうな顔が伊三の頭の片隅にこびりついて、軽い頭痛を感じることもあった。
 せっかく連れ出したが、ぼんやりと座り込んでいる伊三を見て、サキは誘い出した事が必ずしも伊三のためにはなっていないのかと思いなおした。
「おとう、疲れてるみたいだな。帰るか?」
「ああ。」
「迷惑だったか、、な?」
「なにが?」
「無理やり連れ出しちまったみたいで、、、」
 サキの申し訳なさそうな顔を見て、伊三は力なく笑い、立ち上がった。
「そんなことはねえ。ありがとよ。」
 家に帰り、サキが湯を沸かし、菜の花をゆでていると長田がたずねてきた。これから、行元寺に行くのだが、伊三もついて来いと言うのだ。はて、何の用だろうと思ったが、長田は理由も言わずにさっさと歩きだしてしまった。
 行元寺に着くと、定賢が二人を出迎えた。
「おお、伊三も一緒に参ったか。御苦労、御苦労。」
 定賢にいざなわれて、本堂に上がった長田と伊三は祭壇に手を合わせた。不思議と伊三はわずかに心が静まる感じがした。その伊三の表情がかすかに和らいだのを見て、
「伊三、何か悩みでもあるのかな。一人、心にしまっているよりは口に出してしまった方が身も心も楽になるぞ。」
と定賢が言われて伊三はあの三日間に見た夢の話をした。
「なんであんな夢を見たのか。おれは忠朝様の家来になることをあきらめていたのに、忠勝様の霊が現れて忠朝様の家来になれと言う。おれはこれから殿様のためにうめえ米が作れる百姓になると決めたのに、忠勝様は家来になって忠朝様をお守りしろとおっしゃった。やはり、仰せに従わなければいけないのでしょうか。おれはどうすればよいのか分からなくなりました。」
「ふむ。伊三、わしが思うにそれは忠勝様の霊ではあるまい。」
「いや、間違いありません。一度しかお会いしたことはありませんが、あのお顔は先代の殿様に間違いはありません。」
「いやいや、そう言うことではない。お前の心に潜む願いが忠勝公のお姿を借りて夢の中に現れたということだ。」
「??」
「伊三、お前はもともと忠朝様の家来になりたいと思っていたろう。」
「はい。」
「それが、わしのもとで暮らし、米を育てていくうちに、今度は立派な百姓になろうと思い始めた。ついには家来になりたいと言う気持ちよりもうまい米を作りたいという気持ちが強くなってきた。」
「ええ、まあ、そうだと思います。」
「ところが、病に伏した時に、知らず知らずに抑え込んでいたお前の希望が忠勝公の姿となって夢に現れたのだろう。」
「でも、夢の中には、岩和田の茂平さんや、長田様も出てきました。」
「それは、全てがお前の気持ちの現れだろうよ。生まれ故郷への思い、恩人である長田殿への感謝。みな、お前には大切な人々だろう。自分がどうすれば、誰が喜んでくれるかを考えて、その人々を夢の中に呼び出してしまったんだろう。それにしても、わしが出てきて出家しろとは、うれしい事よ。」
「じょ、冗談ではありません。なんになるにしても、、、、坊主だけは嫌だ。」
「ほほ、正直な。しかし、まあ、わしの事も慕ってくれているということには違いあるまい。うれしい事じゃ。」
 伊三は、はずかしくなりうつむいてしまった。
「まあ、いずれにしても、伊三、好きなように生きろ。誰もお前をしばりはしない。米を作りたければ、米を作れ。岩和田に帰りたければ、岩和田に帰ればよい。忠朝様に奉公するなら、それも良い。それとも、出家するか?わしはそれが一番良いと思うがな。」
「いや、そればかりは、、、」
「ほほ。やっぱり嫌か。」
 それまで定賢の話をじっと聞いていた長田が口を開いた。
「定賢様、そのような事を申されては困ります。伊三が勝手に岩和田に帰ったり、お城に奉公することなどできようはずがありません。」
「長田殿、そうこわい顔をされるな。本当に岩和田や大多喜のお城に行けと言っているのではない。自分の本当の気持ちを押し殺すことはないと言っているのだ。忠朝様の家来になりたいと言う希望を捨てきれないのに、自分にうそをついて、米作りをするのは良くないと言うことだ。希望を捨てるのと、かなわぬまでも夢を持って今の仕事にむきあうのでは、おのずから作る米の味も違ってくる、と言うことだ。」
「なるほど。しかし、夢を持つと言うのは欲望の現れともいえませんか。煩悩を捨てろと言う教えに反するのでは。」
「なに、まあ、そんなことを言っても生身の人間じゃ。希望をもちつつも、つまらぬ煩悩を捨てる努力をするぐらいが伊三にはちょうど良い。」
 定賢の言葉に伊三は頭を下げた。
「ありがとうございます。よくわからないところもありましたが、気持ちは楽になりました。」
 定賢はにこりとうなずいた。伊三は長田にも頭を下げた。
「長田様、おれが悩んでいるんで、誘って下すったんですね。ありがとうございます。」
「いや、お前がそんなことで悩んでいるとは知らなかった。実はな、、、」
 長田が本来の用件を話だした。
 伊三が風邪で寝込む前に行元寺を訪れた日に出会った異相の浪人平沢嘉平のことを、定賢は長田に話をした。長田も元は万喜城の土岐家に仕えていたので、もしかしたら平沢の事を知っているかと思ったからである。知っているどころの話ではなかった。万喜城が落城したあの日、長田は平沢と共に戦っていた。敵は今の主人、忠朝の父、本多忠勝であった。
 その平沢が養老渓谷の山小屋でひっそりと暮らしているという話を定賢から聞いた長田は、中根忠古にそのことを話した。忠古は黙って、長田の話を聞いていたが、
「お前に任せよう。」
とだけ言った。
 長田はとにかく、平沢に会いに行ってみようと思い、今日は定賢から平沢の様子を詳しく聞くためにやってきたのだ。なぜか、渓谷には伊三も連れて行こうと思い、それで、伊三を連れてきたのだが、伊三が忠朝の家来になるか、百姓を続けるかというとんでもない悩みを抱えているとは全く知らなかった。少々、あきれてしまった。
「定賢様、実は嘉平を渓谷まで連れて行ったのは私でございます。」
 長田は落城の日とその後の事を話し始めた。
 本多軍の猛攻撃の前に、土岐軍は敗色濃厚、城主の土岐為頼は自刃したとも、わずかな側近と供に万喜城を脱出したともいわれ、落城のときには行方がわからなかった。長田と平沢たちが隠れていた米蔵には火をかけられ、平沢の顔のやけどはその時のものだと長田は言った。
 万喜城に入城した本多忠勝は、城に残った土岐家の旧臣を集め、本多家に仕える気持ちがあるものは召し抱えるが、その気がないものは万喜からは追放する旨を伝えた。長田は決心がつかず、とりあえず万喜城を出て、意識が戻らない平沢をつれ、養老渓谷へと向かった。
 城を出た時にいた仲間のほとんどは途中で離ればなれとなり、渓谷にたどり着いたのはわずかに四名だけだった。その仲間のひとりの親類に当たると言う年寄り夫婦の小屋に身を寄せることにした。
「はじめは、容赦のない本多勢の攻撃に忠勝公は鬼のような人だと思い、復讐を考えないでもありませんでしたが、山奥で静かに暮らしているうちに、忠勝公が万喜城を出て、大多喜に新しい城と町を作ると言ううわさを聞き、平沢を残し、三人で大多喜を探りに来たのです。すると、元土岐家の者たちが嬉々として働いているではありませんか。話を聞くと、戦場では鬼の様な忠勝公も普段は情が厚く、土岐為頼様の事も敵ながら豪勇の武将と称賛しているとのこと。何よりも土岐家に仕えてきた者たちを、町づくりに重く用いているとのことを聞き、、、」
「長田殿も忠勝公に仕える気持ちになったと。」
「はい。三人で相談して、嘉平のことは養老渓谷の年寄りに任せて、本多家に奉公することにいたしました。」
「なるほどな。」
「嘉平の事は気になっていました。もしや、もう死んでいるのではと思っていましたが、定賢様とお会いしていたとは。」
「で、長田殿はどうなさる。」
「はい。とにかく、嘉平に会い、忠朝様のお考えを話し、なんとか私と一緒に仕事をしてほしいと思います。不自由な体でございます。無理はできないとは思いますが、山奥で恨みを持ち、寂しく暮らすよりは、再び万喜で働く事の方が幸せかと。」
「山に暮らすのと、万喜に戻るのと、どちらが幸せか、、それは平沢殿が決めること。まあ、行くだけ行ってみるがよい。平沢殿の話では、老夫婦が亡くなった後も、その小屋に暮らしているそうだ。」

 三日後の朝、、長田は伊三とともに、養老渓谷へと向けて出発した。

                                          まだまだ 続くよ(●^o^●)

 

 


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7 コメント

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偶然ですが! (ジャンヌ)
2011-03-02 01:11:26
養老渓谷の山

大多喜の山

最近このことが気になっていたのですよ~!

「養老渓谷ふる里を守る会」に炭焼きのことが掲載されていたからなんでしょうね。

大多喜城HP イベント情報
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/index.htm
11月に「江戸を支えた大多喜の山」とあります。終了してしまっていますが、炭焼きの匂いがしませんか? 
資料が大多喜城さんでいただけるかもしれませんね。


養老渓谷は、木を切り出して筏に組んで養老川で五井の方に送っていたとか?

養老渓谷のことを知りたいです。
って、養老渓谷生まれの私が、市川市の久我原さんに聞いてどうする・・・(*o☆)\バキッ!
本になるといいですね (おしゃま)
2011-03-04 22:59:25
久我原様
これだけのボリュームで書かれるのは大変です。大多喜町民として感謝しま~す
弓足軽様のおっしゃるように本のようにしていただけたらとても読みやすくなりますね
写真クラブの皆様も小説家様もお待ちしていま~す うえるかむ大多喜
久我原さんへ (ジャンヌ)
2011-03-06 00:51:05
久我原さんの妄想(笑)にある養老渓谷とはどの辺りでしょうか?
粟又の滝の方ですか?
それとも観音橋のある温泉郷の周辺ですか?
粟又や老川十字路辺りは筒森郷と呼ばれ、それぞれの地区は例えば粟又村とか、小田代村というように呼ばれていたと思います。葛藤村だけが不明です。
明治22年以降7箇所の村をまとめられて老川村なりました。
筒森郷は天正18年以来、本多忠勝領であったが、同年2月20日徳川氏の直轄領になっている。なぜこの時点で知行替えがあったのか? 仮説として、当時豊臣秀吉が徳川家康に対し兵船提出を課し、その大船建造の用材を家康は上総山間地帯に求めたということで説明しているようです。

久我原さんの妄想が私の妄想になって広がっています。
郷土の歴史を殆んど知らなかったのに、私に変化が・・・

また久我原さんの小説の登場人物も大多喜町史でちらほら見かけ、改めて感心してしまいました。

大多喜町のご老公?RTさんも、「本多忠勝公を大河ドラマに勝手連」のメンバーになってくださいましたので、心強いですよ~\(^o^)/
弓足軽さんも鍋之助さんも勝手にメンバーにしちゃっていますので、よろしくね!
あっ!おしゃまさんも、人形師の奥村さんも入ってくださいね。
Unknown (久我原)
2011-03-07 18:06:42
おしゃま様
お読みいただきありがとうございます。
大多喜の方に読まれていると思うと、冷汗ものですが、、、、おかしなところがあったら、突っ込みお願いします。
4/3には友達と大多喜にの桜と菜の花を見に行く予定です。

ジャンヌさん
僕の無茶振りに答えていただきありがとうございます。いろいろとわかってきましたので、助かります。
平沢の隠れ家は粟又当たりにしたいと思います。当時のそのあたりに住んでいた人の暮らし向きのヒントがあったら教えてください。家康が木材を求めたというのならば、木こり(林業の方)とかいたのでしょうね。
(と、さりげなくジャンヌさんを酷使)
山の暮らしの考察。 (弓足軽)
2011-03-07 20:53:45
お世話になります。

大多喜の養老渓谷地域から場所は離れますが、久留里の城下を抜け、さらに南下しますと「村のピザ屋 カンパーニャ」というお店があります。(宣伝ではありませんが・・・。)
築百二十年の古民家を改築して営業されていますが、オーナーシェフさん曰く、「代々、山の庄屋(正式な呼称を聞きましたが失念致しました。)の家だった。」との事でした。

庄屋といえば農業の管理的役職また、行政の執行代行者でありますが、林業でも同様な役職があったようですね。かの地の場合は切り出した木材を小櫃川から運び出したようです。

地域としては多少離れてはいますが、同様に林業は組織化されていたのでしょうね。

民俗学で語られる漂泊の山の民である山窩(サンカ)という存在がこの地に居たかは私にはわかりませんが、少なくても山窩と呼ばれる人たちと同様に、工芸(箕や籠、竹細工他)は、山間部での暮らしでは重要な職能の一つであったでしょうね。

おそらく、当地のご年配の世代の方は、当時の暮らしの残像というか、伝統というか、何かヒントを持ってらっしゃるかも知れませんね。


長くなりました。
勉強になります (ジャンヌ)
2011-03-08 01:00:30
久我原さん&弓足軽さん
お二人のお話から、今の今まで疑問も持ったことのない世界を垣間見ております。
ここまで参りますと、柳田国男先生に登場していただきませんでしょうか。

ところで、白土三平さんの「カムイ」の時代はこの頃でしたっけ?
遠野物語から見る山の世界。 (弓足軽)
2011-03-08 23:14:18
皆さま、お世話になります。

柳田國男先生といえば、岩手県遠野郷の民間伝承をまとめた「遠野物語」が有名ですが、山にまつわる物語として「山男・山女」「マヨヒガ」「姥捨て」などが挙げられるかと思います。(話題が大多喜でなくなり、すみません。)

「山男・山女」は山中で遭遇した、あるいは里に降りてきた人ならぬ人の化物じみた物語群ですが、独自の文化を持つ山の民、山窩(サンカ)なのかもと思います。(もののけ姫のアシタカも興味深いネタですが。)「マヨヒガ」は山中にある幻のような屋敷のことですが、零落した高貴な身分の一族が隱棲していたのかもしれません。
「姥捨て」については全国にある姥捨て伝説と異なり、農繁期になると捨てられた老人たちが野良仕事を手伝いに通って来る所が興味深いです。

いずれの物語も、山に対する畏れを感じさせますね。

同じく民俗学系の文学者である松谷みよ子先生は、民間伝承の中から「あったること(存在した事実)」を見出だそうと提言されていましたが、大多喜の民間伝承(昔話や伝説)はどんなものがあるのでしょうか?その中に筒森地域などの山の物語はどんなものがあるのでしょうか?それらの昔話や伝説に「あったること」が隠れているのかもしれません。(随分と昔に読んだ憶えはあるのですが、すぐに思い出せないでいます。)

江戸時代初期のこの地域の動植物の生態系はどんな感じだったのでしょうかね。少なくとも、花粉症に悩まされる人はいなかったでしょうし。

ジャンヌさま、「カムイ伝」は織豊時代(安土桃山)かと思います。