京都御所の右近の橘を見て愕然

2017-06-15 00:00:22 | たび
京都御所が今年になって、いつでも一般公開されることになった。しかも1日4回は職員の方による無料ガイド付きである。かなり暑い日だったのだが、午後の見学ツアーに参加。一緒に回った知人は、体力の限界で途中離脱。

まず、京都の事はよく知らなかったのだが、数年前に東寺に行った時に妙な疑問を感じていた。京都の入口にある羅生門の東に東寺、西に西寺(現存しない)があり朱雀通りを北に進めば御所のはずなのに、東寺はかなり西の方にあって、さらに西に羅生門址がある。北に行ったって御所と場所が離れている。御所じゃなく誤所ではないか。

今回、聞いた話では、平安時代の御所は確かに今の御所の西南西にあったということで、東寺は動かず御所が動いたということだそうだ。位置が変わると、源平時代の歴史上のできごとなども意味が変わってくる。今の位置になったのは1331年。後醍醐天皇(1回目)が失脚し、光厳天皇の代である(しかし、この天皇は歴代にカウントされないことになっている)。

そして地下鉄今出川駅から5分のところに御所に入る門がある。清所門といって、身分の低い人の入口だ。私にお似合いだ。さらに御所というのは二重構造になっていて、大きな御所の中に、さらに御所というエリアがある。ここに入るのが解禁になったわけだ。その大きな御所エリアの中には、この正式な御所のほかに、大宮御所とか仙洞御所とかある。そういうその他の御所は、主として皇后さまや、皇后ではない女御のための建物だったようだ。単に女御といっても古い時代は、天皇のベッドパートナーで、その中で男子を産んだり天皇の寵愛を得たものが皇后になったようだ。

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仙洞御所は生前退位した上皇の住まいに使われたりもしていた。

古くは、江戸幕府の祖である徳川家康は、天皇の退位を画策し、先に隠居用の御殿を作ってから天皇を退位させようとしていた。なかなかの策士だが、天皇制を廃止にはしなかった。織田信長は安土城の中に天皇の屋敷を作って、京都から拉致しようとしていたのだから、こちらも相当だ。

そして、内側の御所の方だが宜秋門という身分の高い人の門を内側から確認するとやはり立派だ。こちらは、今でも国賓がいらっしゃる時には開かれるそうだ。

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そして、現代の京都御所の中心的建物が、紫宸殿である。平安時代には大極殿が使われてたが壊れてしまい、さらに鎌倉時代には紫宸殿も焼失。なにしろ小さな建物を作っても儀式の時には困っていたのだが、ついに幕末になって大きな紫宸殿が完成した。1855年。孝明天皇の代であり攘夷論が吹き荒れていた時だ。そして孝明天皇が謎の急死をしたあと、孝明天皇の女御だった中山慶子の子供が、対外的には皇后の子ということになり明治天皇ということになった。そして明治時代になると、天皇は江戸(東京)に行ってしまったわけだ。

つまり、十数年しか公務には使われなかった建物ということになる。その後も大正天皇、昭和天皇も即位の礼はここで行われたそうだ。

そして、紫宸殿をこちらから見て右側には桜が植えられていて、左側には橘(みかん)が植えられている。左近の桜、右近の桜とは逆ではないかと思っていたら、ガイドの方が、「右左は、殿中の天皇から見たときの方向なので、庶民の目線とは逆だ」ということが説明された。

実は、つい最近、横浜の自宅のエントランスロードの右側の木が枯れていた(昨年、蜂退治をしたときに、巣のあった場所全部に薬を噴射して枯れてしまった)。このため、右側だから橘=ミカン類と勝手に解釈して植えてしまったわけだ。もっとも私は天皇ではないので、左右にこだわる必要もないと思うし、庭に桜なんか植えたら、十年後には大変なことになってしまうだろう。

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紫宸殿を大きく回って裏側には小御所がある。小御所といっても大きい。ちょうど蹴鞠の競技スペースがあり、説明を聞けば肩や膝を使ってはいけないということ。球は楕円球らしい。忍耐の重要な競技なのだろう。当時も松木とか本田のような蹴鞠評論家がいたのだろうか。

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同志社大学周辺散策

2017-06-14 00:00:14 | たび
まず、同志社大学。京都御所の北側にある。市内の一等地にこれだけの土地を得て大学を作るというのも明治時代だからできたのだろうか。あるいは、今治の山中に獣医学部を新設するようなコネがあったのだろうか。ちょっと前の記録すら残らない国なのだから、明治の初めのことがわかるわけもないが、同志社の場所は薩摩藩の藩邸だったそうだ。薩摩藩は江戸にも沢山の屋敷を持っていたようで、京都や大阪にも出張所があったわけだ。

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明治になって、藩邸など要らなくなったわけだ。さらに帝国政府の中心に旧薩摩藩士がいたわけだ。しかし、薩摩藩邸の土地は、誰のものだったのだろう。政府か、島津家か。


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次は、「とらや」。東京のとらやは、京都から江戸に支店をつくったことになっている。つまり東京支店ということ。京都の茶寮に入ったり、羊羹を買って、東西羊羹食べ比べでもしようかともよぎったが、時間がないので、今回はパス。


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室町幕府。現在の京都御所の北西に「花の御所」といわれる足利幕府の建物があった。石碑が一本立ち、『従是東北 足利将軍室町第址』と書かれている。今は何も残っていない。夢のあとである。

しかし、この大正四年に建てられた石碑だが、根元から10センチのところで折れた形跡(修繕箇所)がある。交差点の角に立つので車が当たったのだろう。歴史上影の薄い室町時代の存在証明にふさわしいともいえる。


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次は御霊神社。本来はこの神社に祀られている天皇のことを書くべきだろうが、それよりも歴史上の事実を書けば、この神社の前で応仁の乱が始まった。11年にわたる内戦の始まりでもある。とかく歴史小説では室町、鎌倉時代は嫌われるのだが、最近はよく書かれているようだ。どうして戦うことになったか、説明するのが難しくストーリーが始まる前に読みつかれそうだ。


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猿田彦神社。最近は猿田彦珈琲が有名だが、特に関係ないらしい。京都にある猿田彦神社はかなり小型である。無人方式かな。どうも旅の神らしい。伊勢に大きい社があるそうだ。当日の京都ミニ旅が無事に終了することだけを祈る。

戻れなくなった戻り橋(一条戻橋)

2017-06-13 00:00:53 | たび
晴明神社の近くに一条戻橋(通称:戻り橋)がある。観光地としては些かマイナーだが、故事来歴は一流だ。

まず、この場所は現在の京都御所の西にあたるのだが、平安時代の御所からは北に位置する。京都は御所から南に向かって一条、二条・・・九条なので、一番端の方だ。そこにある橋をなぜ戻り橋というかというと、いくつかの出来事が起きたからだ。

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延喜18年(918年)、文章博士だった三善清行が亡くなった。その息子「浄蔵」は紀州熊野の僧であり、やっとの思いで京都についた時に、すでに葬儀が終わり、埋葬の列がこの橋の上を通っていた。しかし、息子が仏に祈願したところ、父が一時蘇生して、何か父子で物語を語らったということだそうだ。遺産相続とか愛人の後片付けとか話したのだろうか。つまり、死んだ者が蘇ったり、生きている者が死んだりする境界線だったのだろう。

次の例は、近くに住んでいたスーパー陰陽師の安部晴明。こちらも父の保名が、この橋の付近で殺害されたのだが、かけつけた晴明が呪術をもって父を蘇生させた。

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さらに、平安中期の武士である渡辺綱(わたなべのつな)が、この橋のそばで、容姿端麗の女子から「暗いので怖いから家まで送ってほしい」と頼まれ、下心があったかどうか不明だが、馬に乗せて進み始めたら、女はたちまち鬼と化したそうだ。そして、綱は頭に血が上り、刀を振り回して鬼の腕を切り落としたそうだ。切り落とされた腕が戻ってきた話はない。この太平記の記述より、渡辺姓の家庭では「豆撒き不要」ということになっているそうだ。鬼が渡辺一門を恐れているという仮定だ。むしろ鬼は復讐に燃えているかもしれない。

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ところが、この橋だが、下を流れる川や、その土手と一緒に平成7年に新築されている。古い橋は細く、かつ長さが短い。


ところが。この戻り橋だが、画像を確認したら、一方通行の標識が見える。行ったら戻ってこられない。が、うっかり行ってしまった。

晴明神社でパワー補充

2017-06-12 00:00:49 | たび
西陣会館の隣にある晴明神社は平安時代の陰陽師、安倍晴明を祀る神社である。彼の自宅があった場所とされる。さらに時代は大きく下がり千利休が茶を立てるときに用いる水はここの境内の井戸からくみ上げた(つまり利休の家も近い)。京都の歴史というのは時間を超えながら、同じ場所でさまざまな事件が起きるわけだ。

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何日か先に書くが平安時代の京都御所は現在の御所よりもっと西(二条城の北側)にあり、その位置から見ると晴明の自宅は御所の北側ということになる。

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境内には安倍晴明の座像も立ち、思っていた悪魔のような顔ではなく温和な表情である。これが天文学者であり、また魔法使いの実像なのだろうか。

実は晴明は公家の出身ではなく、大阪出身の天才少年だった。大陸から伝わった天文学を最高レベルで理解し、さらに未来を占う力を持っていた。その上、死にそうな人にパワーを吹き込んだりしている。空想の世界では、彼は時空の河を行き来していたといわれるが、さすがにその根拠はない。貴族の出でないことから出世は遅れたそうだが、老年になり彼のスーパーパワーにすがる人たちが毎日門前に列をなしたのだろう。

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日本でも有数なパワースポットであることは間違いなく、ここに来る人は間違いなく、何らかの問題を抱えた人と思われる。私もスマホの充填時間ほどはいないが数十分充電して、お守りを購入する。本来は魔除けを入手すべきものだろうが、すでにパワーストーンとか八方除とか持っているので、『営業力・学力 向上守』にする。今更、何を目指すのだろうか、自分でもわからない。向上心には、土(黄色)の粘りと火(赤)の勢いが肝要だそうだ。

樂美術館の侘

2017-06-11 00:00:24 | 美術館・博物館・工芸品
知人と会うため京都へ行くことがあり、京都御所・同志社大学周辺を中心に散策。第一弾は『樂美術館』。つい最近まで東京の近代美術館で、楽焼(=田中吉左衛門の歴史)展を拝観し、特に家祖、初代、二代、三代の作に感動(=感心)したこともあり、本家本元の京都樂美術館に突撃しようという気持ちになった。

しかし、冷静に考えれば、「メイン作品は東京に行っているのだから、樂美術館にいっても何もないのではないか」ということかもしれない。反対に、「メイン作品が東京に行っている間は、普段は蔵の中にある準メイン作品が展示されているのだから、根こそぎ見るには今ではないか」という考え方もある。

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そして、かなり暑い日であったが樂美術館に歩いていくと、土壁と焼杉と立派な瓦屋根の建物が見えてくるのだが、これは樂美術館の隣にある田中吉左衛門邸である。ここに家があるというのは、おそらく千利休の仕事場の一つがこの近くだったからだろうか。茶道という日本にしかない総合カルチャーの一角をなすのが茶碗作りであり、利休の思想を具現化したのが家祖の田中宗慶であり初代吉左衛門の長次郎だった。

美術館の方は、ややこじんまりした造りであり、やはり懸念したように常時展示されていたと思われる名品は出張中で、代わりに、『茶碗の結ぶ「縁」』というミニ展が行われていた。田中家の友人たち(表千家○○代家元とか裏千家○○代家元とか)が余技として楽焼を焼いた作品などが展示されていた。いささか残念。中には萩焼家元十五代坂倉新兵衛の萩焼茶碗、楽焼茶碗も出展されていた。一樂二萩三唐津と言われる1位と2位は友達だったようだ。

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まあ、茶道の極意は無とか虚であるのだろうから、美術館の中にお目当ての茶碗がないからといって残念がることもないのだろう。茶道の別名は「侘茶(わびちゃ)」である。

なお、田中家の始まりのあたりの不思議な家系図について。二代目以降現代の十五代まで一子相伝で田中吉左衛門を名乗るのに、この二代目の父である田中宗慶は、初代ではなく家祖と呼ばれ、初代は長次郎という人であるのだが、おそらく焼物事業を宗慶と長次郎が共同で始めたのではないだろうか。現代的にいうと、会社の所有は宗慶が行い、運営(お雇い社長)が長次郎だったのではないだろうか。そして、諸般の理由で、家祖は長次郎の跡継ぎを自分のこどもにしたのではないだろうか。

藤井憲郎詰将棋作品集

2017-06-10 00:00:56 | しょうぎ
最近、将棋界で「藤井」というと、連勝中学生のことになる。少し前なら藤井システムという画期的な戦法の発明者が有名だった。将棋の定跡に特許権が認められるなら、相当の富を得ただろう。

連勝中学生は詰将棋も第一人者で、解くだけでなく作る方も難解作が好きなようだ。

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ということで、ついに第三の藤井と言われる藤井憲郎氏による7手詰以下100題がまとめられた。新幹線で関西に行くときにちょうどいい長さだ。

詰将棋の短編というのも解いていて奇妙なのは、何題か答えが見えない問題もある。つい、「ミスプリント」ではないかと疑ってしまう。悪い癖だ。時々ミスプリントで詰まないことがあるため、どうしても問題のせいにしてしまいがちになる。

今回も1問、解けないので翌朝に持ち越した問題があったが、二日目に見ると難なく解けてしまう。やはり人間の脳というのは、欠陥があるのだろうか。


さて、5月27日出題作の解答。

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邪魔駒移動法である。上部脱出防止のために打った2三金が邪魔になるわけだ。

動く将棋盤はこちら


今週の問題。

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入玉図。一手一手はたいした手ではない。それぞれの駒の最低限の能力を利用する。

総手数のヒントだが、
「総手数と盤上駒数の積は、総手数から持駒数を引いた差の三乗からさらにストロベリー数(和名)を引いたものに等しい」

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ただし、正の奇数である。

三次方程式の解を得るには1545年に発表された有名な数学者「カルダノの公式」がある。その10年前に別の数学者タルターリアから「マル秘」で聞いたものを、本人の許諾なしに自著
で公開したとも言われている。タルターリアからの抗議と数学決闘を挑戦され、カルダノは自分の代わりに優秀な弟子フェラーリをタルターリアと数学決闘で戦わせ、フェラーリは四次元方程式の解法まで公開してしまう。なんてひどい人間たちだろう。ちなみに3人ともイタリア人だ。

Yakult製品を急に飲み始める

2017-06-09 00:00:06 | あじ
ヤクルトといえば、おばさんと球団を思い起こすだろう。そして小さな容器のヤクルト。

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ちょっと都合があって、ヤクルト商品を色々と試飲&試食している。ドリンクの他にもヨーグルト、お茶、黒酢ドリンク、調整豆乳、青汁、さらにタフマン。どういう都合かというと、今はちょっと書けないので、はっきりした後で、書くかもしれない(書かないかもしれない)。

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そして飲料とヨーグルトには基本的に創業者の名前が付いた「乳酸菌 シロタ株」が使われているのだが、どうも基本的なヤクルトの味は、シロタ株とは関係ないようだ。ヨーグルトも味付けは他社のヨーグルトを参考にしているようだ。

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ところで、もっと驚いたことは、ヤクルトという株式会社の決算。昨年の数字は不明だが、平成27年度は、3900億円の売上で、営業利益が400億円ほどで、経常利益は500億円。毎年、営業利益より経常利益は60~100億円多い。なぜ、いつも経常利益が多いのかという謎が気になる。

その辺が明らかになればいいのだが。単にスモール経営なのかもしれない。

クロネコもびっくり

2017-06-08 00:00:29 | 投資
株主総会のシーズンなので色々な資料がやってくる。特に、過去分残業代を従業員に払ったため大幅減益になったヤマト運輸の決算を読んでみると、かなりびっくりする内容だが、28年度の営業収益(≒売上高)が前年度比+3.6%の1兆4668億円だが経常利益は前年度比マイナス50%の349億円ということ。

別の報道では、過去2年分の残業代が190億円ということなので、残り150億円のマイナスは過去分ではなく28年度分の正規に計算した残業代ということなのだろう。過去分については2年が時効で、残業代未払いの証明を社員がする必要があるようだ。さらに、3月末の段階では、まだ払っていないようで、引当金にしているということなのだろう。

そして、こうさらっと書いている。

また、グループ全体の「働き方改革」を推進する上で行った社員の労働時間の実態調査を踏まえ、新たに認識した労働時間に対する一時金を計上しました。

ずいぶん、簡単にすませているが、友達に総理大臣でもいるのだろうか。株主総会は狭い会場でやるようだが心配だ。「糾弾総会」など聞きたくないので行かない。

そして、ヤマト運輸は5事業(+その他)を展開しているそうだが、売上の82%、社員の90%、車両の90%を占めるのが中核事業の「デリバリー」部門。宅急便は昨年比+7.9%増の18億6700万個、DM便は+0.4%の15億4200万個。つまり年間34億個を運んでいるわけだ。

そして、デリバリー部門の売り上げが1兆1510億円でプラス3.5%ということ。早い話が通販A社の荷物が増えた、ということなのだろう。DMの単価は宅急便よりかなり安いだろうから、考えてみれば、追加の荷物量がプラス7.9%で売上がプラス3.5%ということは、追加分の単価は平均の半分くらいと推測される。つまりA社の単価は他の利用者の半分ではないだろうかとも推測される。

湾岸のいじめっ子論理

2017-06-07 00:00:47 | 市民A
サウジ、UAE、エジプト、イエメン、バーレンの5ヵ国がカタールとの国交を断絶し、大使館が閉鎖になった。国交断絶というのは、これから戦争を始めようという準備でもあるわけで、にわかに複雑になった。5ヵ国がカタールを気に入らないのは、イランと仲がいいからということで、かなりムチャな論理だ。

わかりやすくいうといじめっ子の論理といってもいい。サウジからすれば、イランをいじめようと仲間をあつめていたところ、政治的優等生のカタールが、「いじめはよくない」といったら「お前も、イランの仲間だろう」と言って、二人まとめていじめようとしているわけだ。

イスラム諸国の政権が一向に正常化しないのは、考え方として右側の過激派と左側の過激派しかいないからで、中道というのがない。カタールは右にも左にも偏らない政権だったがために、巻き添えを食った格好だ。

昨年までだったら、学校の先生に当たるアメリカが、色々と話を聞いて、学校崩壊にならないように右往左往していたのだが、今の政権は、武器を輸出したいがため、サウジを応援した。担任の先生までいじめに加わったわけだ。

もっとも、裏側には世界の混流に流れるエネルギー事情の変化もあるのだろう。古い資源経済学では原油の持つポリティカルパワーを強調し、サウジ、UAEの力の源泉を原油と見ていたのだが、いささか古すぎる。カタールは原油もある程度産出するのだが、それよりも天然ガスの大産地である。OPECは原油生産量の国別生産量を決めるが、原油周辺資源(天然ガス、コンデンセート、NGL(軽質油))については感知しない。サウジはほとんど原油だけだが、カタールは天然ガスが多い。

さらにペルシア湾(アラビア湾ともいう)の出入り口はカタールとイランであり、その間には上記の軽質原料油の油田が横たわっていて、2国で生産をしている。これは原油の中の売れない重油分が入っていないため、収益性が高く価格も高い。

つまりカタールは、優等生で金持ちのわけだ。嫌われるわけだ。

しかし困ったことに、日本だけでもないが、多くの国はサウジから原油を買い、カタールからは天然ガス(LNG)を買い、こっそり軽質原料油を買う国もあるということ。

原油を買える国は他にもあるのだが、天然ガスを買える国は少ない。米国もシェールガスの輸出を始めるようだが、現政権では安定的に買えるかどうか疑問がある。

欧州がカタールを支持し、米国がサウジを支持し揉めそうな感じがある。

武士の献立(2013年 映画)

2017-06-06 00:00:44 | 映画・演劇・Video
加賀は日本を代表する郷土料理を生んだ藩である。映画の話ではないが、世界三大料理とは中国、フランス、タイを指すそうで、いずれも王国であり裕福だった。フランス料理の元になるロシア料理も同様。インドも料理はうまい。

日本料理は多様性では負けないが、多くは加工度が低いのが特徴で、韓国では「日本が料理のまねをした」と批判すら行う。事実誤認だが。

料理が上手いというのは、経済的に余裕があることと、封建制が確立していることが必須だ。英国のように民主主義の国では料理はまずい。なにしろ主婦が料理を作るのでは、次々に一の膳、二の膳、三の膳というように順番に出てくることはない。専門のコックがいるからキング(大名)に御馳走を届ける必要があり、そのために料理が発達する。

そして加賀料理という絢爛豪華で時に金箔まで使われるという独特の味が生まれた。

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その加賀藩の料理番のことを「包丁侍」と揶揄して読んでいた時代のこと。西田敏行演じる老包丁侍ができの悪い跡継ぎ息子(高良健吾)の妻に料理上手の出戻り娘(上戸彩)を選んだ。

どうも高良健吾が出演する役は、ブチ切れることが多く、本作でも藩主(前田家)暗殺計画に加わろうとするのだが、上戸彩が二本差しを隠したため、襲撃に遅刻(しかも木刀持参)したため、発覚を免れる。(共謀罪上はどうなるのだろう。襲撃に遅刻して何もできずにすごすごと逃げ帰る場合)

しかし、そういうごたごたについて幕府は加賀藩の弱体化(あるいは取り潰し)を考えるが、幕府からの使者などを含む大宴会を開くことで幕府の嫌疑は晴れる。

その大宴会の素材をさがしに夫妻は奥能登地方を散策するのだが、そこがまたいい。

能登は加賀藩にとっては奥座敷のようなもので、開発されないままの素朴な海陸が存在していた。海岸のシーンは、なんとも美しい。(奥能登いきたし)

そして、西田敏行と高良健吾はその後、加賀藩の公式料理だけではなく町人のレシピまで集約した加賀料理全集を書き上げる。それがあるからこそ加賀料理が輝いているのかもしれない。

原作がないのに、古い資料を探して脚本を書いた方々に感謝。


同じように、安定していた藩には、それなりに大なり小なりのストーリーがあるのだろう。発掘してみたらどうだろう。古文書解読班、郷土史研究班、歴史小説作成班とか。問題は、郷土史研究班の頑固さかな。誰も顧みたことがないような小ストーリーの発掘がいいのかもしれない。

高熱隧道(吉村昭著)

2017-06-05 00:00:26 | 書評
1967年に吉村昭が戦前(1936年から4年間の工期)に完成した黒部第三ダムの工事を題材にドキュメンタリー小説として書いた。奇しくも発行から50年。

黒部川のダムといえば黒四と言われる第四ダムが有名で、石原裕次郎主演の映画にもなっているが、黒四工事での死者は171名とされるが、第三ダムでは300人より多い。それも、谷底に滑落したり、雪崩で亡くなったり、岩盤が高熱を帯び、ダイナマイトの自然発火も起こっている。

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どうして、そんなところに発電所が必要かというと、中国大陸で戦争が起きそうだったこと。実際には、ダム完成の前に戦火が広がっていった。そのため、国家総動員令にしたがって、通常の日当の10倍も使って冬の工事を行ったりしている。

富山県は危険すぎる工事として、中止を求めるが、国家事業として政府からは工事続行の意思が伝えられる。

吉村昭らしく、悲劇の場面でも淡々と犠牲者のご遺体のことなど書いてあるのだが、国家権力の横暴が浮かびだすようになっている。

しかし、温泉地でもある地域でトンネルを掘ると、岩盤の温度はどんどん上がっていき、160度以上にもなっていく。

一つ気になったのは、朝鮮人工の存在。何一つ本書には書かれていないのだが、現場にはいたはずだし、犠牲者の中にも含まれている。


それほど高熱ならば、地熱発電所に最適なのだろうか。

アンデルセン展(川崎市市民ミュージアム)

2017-06-04 00:00:27 | 美術館・博物館・工芸品
川崎市の等々力緑地にある市民ミュージアムで開催中のアンデルセン展に行った、思っていたよりも充実した展示だった。行きにくい場所で、これだけの資料を展示するとは、力が入っている。

最近、「吟遊詩人」と「影」という問題作を続けて読んだこともあり、著者の実像を知りたかった。

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アンデルセンはデンマーク生まれで、1805年にオーデンセというデンマークで2番目の市(といっても人口は6千人)で生まれる。父や母に愛されて育ったが、父はアンデルセン11歳の時に他界してしまう。軍隊から戻ってから間もなくのことだったようだ。日本の幕末の志士たちは1830年頃に生まれた者が多いのだが、アンデルセンは70歳まで生きたので、ほぼ明治維新の頃の人物と考えればいい。

当時の街並みが会場に復元されていたが、なにしろデンマークは貧乏な国だった。国のピークは出生の300~400年前だったのだろうか。デンマーク人の祖先のノルウェーを戦争で失ってから貧しくなったらしい。残されたのは幾つかの島々とグリーンランド。欧州では一流国と二流国というのは世界チャンピオンになったことがある国かどうかということで、ポルトガル、スペイン、オランダ、英国、フランス(ナポレオン)、ドイツ(ヒトラー)がよきにせよ悪しきにせよ、世界チャンピオンになった国で、それ以外の国は二流感覚が漂う。

さて、会場で色々とアンデルセンの事情が判るのだが、まず驚いたのは、アンデルセンの巨体ぶり。185センチということで、当時の標準身長の160センチよりも25センチも高い。現存する写真などを見ると、一つの問題があることが判る。写真は彼が50歳頃から一般的になったのだろうが、顔つきが写真によってかなり異なっている。それは、彼が自分のことを「醜い男」と認識していてカメラの前に立つと、さまざまな顔を演じていたからだそうだ。どうも本物の顔は森友学園の籠池元理事長に似ているようだ。

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なぜ、色々な表情ができるのかというのは、彼が20歳頃、劇団に入っていたからなのだろうか。冒頭で書いたように父親が11歳で亡くなってから、早くから自分の将来を決めなくてはならなくなり、劇団の門を叩いたわけだ。彼自身、目標としていたのが、シェークスピアだったわけだ。約250年前に活躍していた劇作家。

そして幸か不幸か、運命の通告を劇団から言い渡される。

クビ!

一人だけ体が大きすぎて、劇に出せないから役者は無理と言われる。まあ、合理的な話だ。妖怪とか洞窟の怪奇人とか未知の動物役が毎回必要なわけじゃないだろう。

彼の童話に、身体的ハンディキャップを背負った人間や動物が多く登場するというのは、この時の経験が作用しているのではないだろうか。

ともかく、彼は役者をあきらめ、創作の道に進むために大学に行き始める。ということは、色々なプロットのネタは大脳の中に醸成されつつあったのだろう。書く技術が必要だった。

しかし、彼が並の人間ではなかったのは、大学は勉強するために行くもので卒業するために行くものではないことを知っていたことだ(もちろん入学した時にすでに23歳だったので、現代風に言えば5浪ということかな)。20代の後半には、カバン一つ持って海外旅行(放浪)を始める。行き先は30ヵ国以上らしい(詳細は未調査)。

時の総理大臣も60ヵ国以上外遊しているが、本人が行きたいのか夫人Aが行きたがるのか定かではないが、アンデルセンは生涯独身だったので間違いなく自分の中から湧き出す旅立ち衝動があったのだろう。その時に彼が持ち歩いた皮製のスーツケースの実物が今回の展示品の目玉の一つだが、7泊8日用のサイズ位だが、キャスターはない。手に持って運ぶしかない。大男だからこそ可能だった旅かもしれない。皮はまだ光沢を残し、バッグの外側には様々なものを取り付けることができるように何枚もタブがついていて、象の耳のように見えることから、本人は、バッグを「象(のデンマーク語)」と名付けている。

そして30歳の時に、永遠の名作「即興詩人」を書き、その後、創作童話を量産することになった。グリム童話は欧州の内陸の森の中に残る怖い民話を下敷きにしていることが多いのに対し、アンデルセン童話は欧州に住みながら貧しい生活者の心の叫びを表出させるところに人類の普遍的共感を表現していると言えるのかもしれない。

ということで、今更ながらアンデルセンをこつこつと読んでみようかとか、船橋市にあるアンデルセン公園に行ってみようかと思ってみるものの。当面、保留しようかな。同名の店舗で古くからパンは買っているし。

重箱の中身は・・

2017-06-03 00:00:36 | しょうぎ
5月21日(日)に将棋連盟4階で行われた将棋ペンクラブの関東交流会の際、4階の階段ホールに、出前の容器置き場があった。有名な冤罪事件の後、カンニングは無罪だったのにもかかわらず、再発防止のため、対局中の棋士の外出が禁止になった(違反者は注意されるようだ)。

そのため、昼食(場合によっては夕食)を食べに行くことが事実上禁止になり、棋士は出前を注文することになった。その結果、どんぶりなどは、奨励会員が、所定の場所に片付けて置き、業者が持っていくことになったようだ。段の一番下が「みろく庵」、二段目が「ほそ鳥や」、そして一番上が「その他」ということになっている。

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そして、その一番上には、立派な重箱(吸い物椀付き)と、うどん風のどんぶりが残されていた。

この立派な重箱は誰が何を注文したのか知りたくなる。一二三九段のうな重?いや、対局はないはずだ。また、新人棋士でもないだろう。遠慮があるだろう。対局相手がキツネそばとか注文するのに数千円の昼食を頼むのも不自然だ。食べ物に遠慮する必要なんてまったくないのだが、まあ、昼食で恨まれるのも得策じゃない。それに最強棋士(ソフト)はメシを食わないのだから、高い食事をすればするだけむなしい気持ちになるだろう。

ということで、前日の対局を調べると、女流王座戦の予選の一斉対局だが、将棋連盟は使われていない。つまり前日は対局がなかった。その前の19日は王位戦リーグ丸山×菅井、棋王戦予選遠山×及川、王将戦予選山崎×豊川、新人王戦甲斐×佐々木、女流藤花石高×真田の5局。

この中で1局だけ昼食を確認できたのが、丸山×菅井戦。丸山九段はヒレカツ定食赤だし付き(ふじもと)、菅井五段は五目焼きそば(紫金飯店)だそうだ。つまり、他のメンバーを見ても重箱の中身が丸山九段のヒレカツだったことは疑いがないだろう。「カツ」で縁起をかついだのだろうか。対戦結果は焼きそばの勝ちだった。

ところで、左側の張り紙だが、喫煙スペースについて、5Fまたは1F駐車場脇と書かれている。駐車場脇というのは、建物の外ではないのだろうか。


さて、5月20日出題作の解答。

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最終手は金右(直)を期待。完成した図は、市松模様の中でも「流れ市松」という文様。

nagareichimatsu


動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

0603m


ごく常識的にいうと、少し泳がせてから釣り糸を巻き上げる。

分かったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見を記していただければ正誤判定します。

明石焼きの食べ方(不安)

2017-06-02 00:00:02 | あじ
明石に行って食べるなら名物の蛸を使った「明石焼き」しかないだろう。

駅の近くにある「まるまる」という店に入る。「まるまる」はれっきとした店名である。匿名にするために「〇〇」と書いているわけではない。

しかし、そもそも明石焼きというのを正確に知っているわけじゃない。たこ焼きといえば、たこ焼きに色々とトッピングされ甘いソースが塗られている「ぼてじゅう」式しか想像していない。本場明石なのだから、蛸が二切れとかかな、とか方向違いの推測をしていた。

で、メニューには「たまご焼き(明石焼き)」と奇妙な書き方になっている。洞察するに、いわゆる明石焼きは、地元ではたまご焼きと呼ばれているのだろう。もちろん関東では、卵焼きとは、卵を何らかの方法で、直接フライパン等で焼くことを意味する。

さらに、一人分が15個と多い。確か普通は、パックに8個とか10個ではなかっただろうか。15個とは奇数だし。

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で、しばらくすると、予想外の物体が現れる。たこ焼き15個と出汁(だし)だそうだ。それとテーブルに常備されているのは、ソースと唐辛子の粉。

はっきり言って、見当がつかない。周りの客をみると、ほとんどが食べ終わったところで、お水を飲んだり、財布を持って立ち上がっていく人、ビールとおつまみの人などだ。

ということで、困ったときはスマホ頼り。(といっても数日前にスマホ新替に追い込まれたばかりで、操作に手間取る)

数分調べたところ、出汁で食べてもいいし、ソースで食べてもいいし、味が物足りなかったらソースをつけてから出汁で食べてもいいらしい。何もつけないケースも含めると4通りだ。唐辛子の使用、不使用を組み合わせると、8通りの食べ方があるが、唐辛子のせいで激しい腹痛を起こしたりすると厄介が起こる。このあと、仕事に行くついでに明石にいるのに、まだ仕事は1秒間すら始まってもいないからだ。

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ということで、いくつかトライした結局、一番味が濃いソース+出汁という選択に至ったのだが、単に普通のたこ焼きに近い味にしているだけという保守的選択をしていただけ、とも言える。

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食べ終わりに近づいた時に、別の二人連れの観光客のテーブルに15個が届き、こちらのテーブルの様子をうかがっていることに気付いたので、唐辛子を山のように振りかけたふりをして、さらに箸ではなく指でつまんで食べ始めてみた。

明石市立天文科学館

2017-06-01 00:00:35 | たび
まず、明石の街は複雑だ。明石城から見えるところにある明石市立天文科学館に行こうと歩いていくと、道は細かったり太かったりするが、交差点があって、右に行く道は行き止まりと書かれているため天文館に向かう道(左)を少し歩くと、こちらも行き止まりだった。

といって、迷路状でもなく、五角形型の道でもなく、若干かぎ型に歩いたりする必要もある。

城下町の特徴である攻防上の問題だけではなく、山陽路の宿場町という性格も必要で、それで中途半端になったのだろうと推測。

そして本題。

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明石市は子午線の街として知られる。東経135度線が市内を通っている。日本標準時が東経135度に決まったのは明治21年1月1日。当時は樺太千島交換条約(明治8年)によって北千島の占守島(東経156度)から与那国島(東経123度)までがカバーすべき時間帯だったのだが、足して2で割ると東経140度となりちょうど東京のあたりなのだが、国際標準時(GMT)の起点のロンドンから1時間ずつの刻みをつくると、15度(360度/24時間)となり、選択できるのは明石(135度)の次は150度のウルップ島(択捉の次)ということになる。

明石の天文科学館は、当然ながら子午線の上に立っているし、市内にも子午線上をあらわす表示が何か所かある、国道2号線にある表示は20年ほど前に、レンタカーで走った時に一瞬見たものだが、今回確認すると、郵便局の前にあり郵便局は子午線郵便局と呼ばれているし、南の方には子午線交番もある。

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一方、子午線は南北に存在するのだから、明石以外の町は、どういうことになっているのか調べると、まず南側は淡路島の一部を縦断したあと、紀伊水道になり、四国にも本州にも触れることなくインドネシア、オーストラリア、そして南極である。ただし、北側には「丹波市」があり、さらに京都府「久美浜町」で日本海になる。早い話が山ばかりなのだが、実は天文台にとっては、最適立地は光やゴミの少ない山中の方が良いわけだ。もっとも天文台と子午線はほとんど関係ないので「丹波黒豆天文台」などできるわけはないだろう。

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そして、本来、天文台の目的とは関係のない「明石大橋の絶景ポイント」がこの天文台であるということが、よくわかった。


そして、人心を惑わすようなことを書きたくはないが、少し興味を持っていることがある。南海トラフを震源とする大地震とその津波が太平洋側を襲った場合の影響だが、大阪湾には大量の太平洋からの海水が押し寄せることになっている。その時に、瀬戸内海と大阪湾の間にある淡路島の北側の明石海峡と南側の鳴門海峡が、その突然の海流にどのように影響があるかということ。

狭い海峡は瀬戸内海への津波の流入を阻害する効果があるのか、あるいは逆に海峡が超高層の津波を発生させるのか。天文台を残して町がすべて海に沈むということにならないことを祈るばかりだ。