横浜山手にある神奈川近代文学館で開催中(~11/13)の林芙美子展に行く。
昭和前期に激烈な人生を歩んだ林芙美子の人生を振り返る第一部と、その作品論を中心とした第二部にわかれる構成になっている。林芙美子ファンには是非勧めたい展覧会である。
極貧のこども時代。尾道の小学校の位置は、3年前に尾道に行ったときに頭に入っているが、今でも街筋は変わっていない。何しろ文章の上手い女の子で、その後、小説家になることを夢に見ながら東京に上京し、結局カフェの女給をやりながら、詩や小説を書き続ける。
そして出世作が、有名な「放浪記」である。自らの地理的放浪を記述しながらも実は内面に潜む精神の放浪がえメーンテーマだろう。繰り返し復刻されている。
そして、流行作家として立った頃に始まったのが日中戦争。彼女は慰問団として、以降中国大陸を何度も訪れている。いわゆる戦争協力者ということになる。とくに昭和12年12月31日には占領したばかりの南京に入っている。いわゆる南京大虐殺が起こったとされるのは同月13日の占領から6週間の間といわれるので、まさにその時に作家林芙美子は現場にいたことになるが、彼女が残した記録は、単に南京に到着したというメモだけである。
その後も戦争に協力するが、昭和18年に長野県に疎開して以降は、しばらく軍線からは距離を置く。慰問団は朝日、毎日の両新聞が運営を行っていたのだが、戦後ジャーナリズムはその点には触れない。
そして、戦後。
芙美子は熱病にとりつかれたように書き続ける。そのすべてが、戦争による犠牲を強いられた人を描いたものである。芙美子自身が語るように、「復員兵」になったつもりで働いていた。
そして、ついに働き過ぎで、心臓を傷めた彼女は、46歳で急死する。
通夜のお清めの席が、大荒れになったことや、追悼文としては名文すぎる川端康成の賛辞については、本展では触れられないが、そうして賑やかにして送られる。60年前のことである。
昭和前期に激烈な人生を歩んだ林芙美子の人生を振り返る第一部と、その作品論を中心とした第二部にわかれる構成になっている。林芙美子ファンには是非勧めたい展覧会である。
極貧のこども時代。尾道の小学校の位置は、3年前に尾道に行ったときに頭に入っているが、今でも街筋は変わっていない。何しろ文章の上手い女の子で、その後、小説家になることを夢に見ながら東京に上京し、結局カフェの女給をやりながら、詩や小説を書き続ける。
そして出世作が、有名な「放浪記」である。自らの地理的放浪を記述しながらも実は内面に潜む精神の放浪がえメーンテーマだろう。繰り返し復刻されている。
そして、流行作家として立った頃に始まったのが日中戦争。彼女は慰問団として、以降中国大陸を何度も訪れている。いわゆる戦争協力者ということになる。とくに昭和12年12月31日には占領したばかりの南京に入っている。いわゆる南京大虐殺が起こったとされるのは同月13日の占領から6週間の間といわれるので、まさにその時に作家林芙美子は現場にいたことになるが、彼女が残した記録は、単に南京に到着したというメモだけである。
その後も戦争に協力するが、昭和18年に長野県に疎開して以降は、しばらく軍線からは距離を置く。慰問団は朝日、毎日の両新聞が運営を行っていたのだが、戦後ジャーナリズムはその点には触れない。
そして、戦後。
芙美子は熱病にとりつかれたように書き続ける。そのすべてが、戦争による犠牲を強いられた人を描いたものである。芙美子自身が語るように、「復員兵」になったつもりで働いていた。
そして、ついに働き過ぎで、心臓を傷めた彼女は、46歳で急死する。
通夜のお清めの席が、大荒れになったことや、追悼文としては名文すぎる川端康成の賛辞については、本展では触れられないが、そうして賑やかにして送られる。60年前のことである。