怪しく輝く会津流紋焼の怪しき歴史

2020-05-10 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
小振りな一輪挿しの裏側には『流紋』と刻印があるのだが、花瓶の下部の方の紋様は時価十億円といわれる曜変天目にも似ている。もちろんそんな代物ではないのだが、流紋とは釉をたっぷり塗って、焼くに任せてその釉が流れて世界に二つとない紋様をなす現象を利用している。

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この流紋焼きは大きく分類すると、『会津本郷焼』の中に、陶器と磁器があり、その磁器の中でも明治33年に、電柱に使われる碍子を焼いていた会社が製法を発見したとされている。

その最もはじめに遡ると、1593年。戦国武将である蒲生氏郷が91万石という大藩に藩主として会津に入城した。秀吉は伊達政宗に対抗すべく、政宗と年齢の近い氏郷を奥州の出入口に配置したといわれる。そのため、会津若松城を築くことになり、必要な瓦を地元で作ろうということで、窯を建てたと言われる。これが会津の陶器の起源といわれる。

実は、どこにも書かれていない話なのだが、氏郷は別の野望を持っていたのではないだろうか。彼は、茶の道にはまりこんでいた。千利休に師事していた。『利休様命』状態だった。(キリスト教にもはまりこんでいた。)自分で茶碗を焼きたかったのではないだろうか。瓦なんて焼いたって、おもしろくないはずだ。ところが、その後、秀吉の大暴走で朝鮮半島の戦争に出向くことになるのだが、癌によって体調悪化し、帰国後1595年、享年40歳で夭折してしまう。

ということで、しばらくは会津の焼物は瓦を中心としていたのだが、情勢が変わったのは会津藩主が保科正之だった時代だ。保科正之は二代将軍秀忠の子で、秀忠は正妻(お江)中心主義で他の女性には興味を示さなかったと言われるが、生涯で一回だけした浮気によって生まれた子が正之であり、これが大英才だった。

歴史小説家によれば、三代将軍の座をめぐっては、争いがあって、最後は家康が家光を指名したとも書かれているが、ともかく正之は江戸から会津へ押し出された。そして気を取り直して始めたのが産業振興。瓦ばかり作っていても儲からないということで、美濃国瀬戸より水野源左衛門を招聘して陶器作りを始めた。1645年のことだ。源左衛門は陶祖とよばれている。

そして磁祖が現れるのは150年下った1800年の年。佐藤伊兵衛という男だ。彼は、もともと僧侶であったのだが、藩が、藩内にある大久保陶石という原料が磁器(特に白磁)に最適ということから、白磁を作ろうというプロジェクトを興した。それを知った伊兵衛は、僧侶をやめて、陶工を極めたいと考え始めたのだ。

ところが、・・・。要するに素人の焼物教室のような結果が続くわけだ。陶器の歴史は会津にはあったが、磁器については教師がいない。オンライン授業以下のレベルだ。

伊兵衛は、試行錯誤して完成品を作るという正道を歩まないことにした。何しろ僧侶からの転職だ。時が許さずということ。旅に出た。

修業の旅と言いたいところだが、江戸時代は、職業は親から引き継いで子や孫に引き継ぐことになっていた。現在の国会議員みたいな方法だ。特許は家外不出が原則。埒が明かない。

尾張、美濃、京と焼物処を彷徨ったあと、ついに九州佐賀、有田焼の地に行く。そして禁断の手口を考え出した。鍋島藩の菩提寺である高伝寺に住み込みの奴僧として潜入した。会津に残る伝承では、1年ほどの潜入で有田焼の秘伝を吸収したとされる。要するに身分を偽ったわけだ。もしかしたら、鍋島藩に近い場所であることから有田焼の中でも存在すら秘密扱いだった鍋島焼の秘伝まで覚えた可能性もある。

そして、覚えたことを忘れないように、おそらく風のようにすっ飛んで会津に戻ったのだろう。それから2年のうちに磁器専用の窯が立ち、佐藤伊兵衛は磁祖と呼ばれるようになる。その200年ほど後に生まれたのが流紋焼である。

芸術は、なかなか合理的に進化しないところがいいというべきなのだろう。

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