壬申の内乱(北山茂夫著)

2014-03-03 00:00:53 | 書評
本書の上梓は1978年である。日本が高度成長から安定成長乗りかえた時期である。新左翼運動が壊滅し、今思えば不思議だが成長を続けている時代には盛んだった左翼運動があっという間に破綻していく。ソ連や中共のご威光が暴発していたからというのもあるだろうし、生活が安定すると思想のことなど考えなくなるのかもしれない。

そして、その頃の日本における歴史観というのは二つの流れ(というかグループというか)があったようだ。一つは、唯物史観。いわゆるマルクス主義的。もう一つは皇国史観。極左的か極右的か。

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どうしてこうなるかというと、そういう学者が多かったこと(特に国立大学)と、もともと歴史というのは、歴史的事実を解明する学問なのだけど、古い話になると確定的な証拠が少なく、どうしても日本書紀や古事記に頼ることになるのだが、それらの本はすべて真実とは感じられない部分があるため、「推定」するということが生じてしまうわけだ。そういったあいまいさから、「歴史とは歴史観を戦わせること」ということになってしまった。

本書では、北山氏は、右でも左でもない歴史を書こうとしているのだが、実際のところ極右と極左の間のどのあたりが真実なのかわからないわけで、その範囲を超えて極めて○ということだってありうる。

まず書名には、通常使われる「壬申の乱」ではなく「壬申の内乱」となっているが、単に「乱」というと、反乱軍を意味するように感じるわけで、負けた方が正統政権だった、とようにも感じてしまうからなのだろう。

さらに、本書では大海人皇子の戦略を戦国時代のように描いていて、戦局が不利になったり有利になっていく展開を従軍記者のように追っていく。さらに、戦後の敗者の処遇などの描き方は、関ヶ原の戦いような書き方になっている。

実際には、この後の歴史と言うのは比較的解明されているのだが、これより前の歴史と言うのは、かなり靄の中にある。

実は、「タイムマシンがあったらどの時代に行きたいか」という設問を歴史学者にアンケート調査をすると、古代日本を選ぶ人も多いのではないだろうか。ただし、行くだけで帰れない片道切符です、となると気が変わる人が多いかもしれない。

わたしなら「きのう」というような気がする。もちろん株の売買を繰り返して資産を十倍くらいにするつもりだし、きのうの世界から帰ってこられなくてもたいしたことはないだろう。インサイダー取引で逮捕されるかもしれないが。


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