二条城、すべて德川家のためだったが

2018-01-23 00:00:14 | The 城
以前、かなりの文化人の方と話していた時に、お城の話になり、いわゆる残存天守閣12城の話になり、東の方から(弘前、松本、犬山、高岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、高知、松山、宇和島)なのだが、その方が「おかしい!二条城を忘れている」と強く言い張ったことがあった。まあ、有名な方に抵抗すると、後で食事代の支払いの時に得をしないので、お茶を濁した結果、割り勘になったのだが、単に「御城=天守閣」との誤解があるわけだ。

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ある意味、日本の城の中でもっとも立派なものは二条城であるのも事実であるが、18世紀に天守閣は火災で焼失し、再建はされなかった。江戸城の天守閣だって17世紀の中頃に焼失した後に再建されなかったのだから、当然と言えば当然。大坂の陣ではすでに大砲もどきまで出現しているのだから、城を枕に戦っても勝ち目がないことはわかっていた。

とはいえ、前に二条城に行ってからかなり長い時間が経過していて、昨年におバカ大臣が学芸員をののしったのも二条城だったし、以前のイメージと比較して自分の脳の老化程度を確認しようという無駄な抵抗もあった。

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しかし、残念ながら、以前のイメージと同じであったのだが、年を重ね、お城鑑賞に関する無駄な知識を山のように詰め込んでいるため、それなりに細部は面白い。

その前に由来だが、德川家による德川家のための城なのだ。完成したのは1603年。家康が征夷大将軍になり江戸幕府が始まった年である。もちろん天下普請といって、全国の大名から寄付金を調達。ふるさと納税と異なるのは返礼品がないこと。

そして、慶応3年(新暦では1868年)12月9日、この城でもっとも大きな二ノ丸御殿の大広間で德川慶喜は全国40藩に対し、「大政奉還したいが、どうか」と諮る。独断ではなく、各藩に意見を聞くとは、将軍とは思えない弱気である。異論はあったのだが、他に名案なく征夷大将軍の退職願を出したわけだ。(ところがすぐに受理してもらえなかった)

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城内の本丸エリアは築城初期の面影が残り、門にしても戦闘用である。天守閣の跡は石垣が整備されているが、手入れが良すぎる。本丸御殿は現在整備中であるが、これは江戸時代の物ではなく、御所内にあった桂宮邸を明治期に移転。二の丸御殿とのバランスは良くないと言ってもいいだろうか。

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ところで、二条城は深く15代にわたり德川宗家と関係していたのだが、その後の宗家はどうなっているのかといると、現在は18代の德川恒孝氏(1940年生)。息子さんは家広氏(1965年生)で第19代と決まっている。しかし、ベトナム人の奥様との間にお子様がいないと言われているため、20代についてはまったく決まっていないそうである。まだ52歳なのだから。あれこれ頑張ればいいと思うのだが。


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