関ヶ原、東軍側の視線

2018-04-30 00:00:40 | 歴史
関ヶ原の戦いは15万人の戦いと言われる。東西ほぼ同数。もちろん純粋武士もいれば狩り出された名もない足軽兵もいるし、夫の生還を祈るだけの家族もいる。どうみても天下分け目の戦いでどちらが勝つかもわからないのに、大名も家来も勝つか負けるか、運命は50:50だ。

西軍の足軽たちは敗勢になったとき、武具をすべて捨てて裸同然で山の中に逃げ込んでいったと合戦絵図には記されている。無事に逃げ帰れただろうか。あるいは逃げ帰ったとしても主君はいないし、うまく生き延びられたのだろうか。

そう思うと戦場で亡くなったとされる数万(推定最大値は4万)以外にも多くの兵の人生とその家族の人生が失われたと考えるべきだろう。

一方で、では西軍が勝って、家康が切腹していたとして、歴史は変わったのだろうか。研究家によれば石田三成の描く未来も徳川家康の描く未来もほとんど同じだったはずと言われる。ただ、西軍が勝ったとして、豊臣家と三成の関係が良好に行ったのかはわからない。

さて、東軍が勝った翌日の関ヶ原の戦場はおそらく凄まじい光景だっただろう。バラバラになった死体、血の海、野犬や野鳥が群がっていただろうし、金目の所持品を狙う追剥ぎとか。中には生死不明のままのたうち続けていた者もいただろう。

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家康は戦場の南側に二つの首塚を作っている。東首塚と西首塚。東西と言っても東軍と西軍をわけたわけではなく一緒に弔ったそうだ。見分けつかないからともいえる。首だけ埋めたのか体全体も埋めたのかは何の記載もないのでわからなかった。近い方の東首塚に行ってみる。おそらく土地を掘れば出てくるのだろう。

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そして、家康は最初は後陣に構え、戦況が熟したところで陣を敵陣近くまで進めている。何しろ最大勢力だったので温存できる状況ではなかった。いずれの陣も何もない平らな平原である。400年経っても平原であるということは、単に偶然なのか、あるいは血塗られた土地に積極的に住む者はいないということだろうか。第二次大戦中は関ヶ原に弾薬庫があったといわれ、やはり住居にするには気持ち悪いからかもしれない

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そして、決戦地。というか東軍の再先鋒はこのあたりにいて、朝霧が消えたら目の前に敵がいてすぐさま戦闘が始まり、目前の敵と撃ち合い斬りあいになった。決戦地から周りを見渡すと、西軍の各隊が山の上にいたとされるが、石田三成のいた山ですら高いわけではなく小早川が満を持していた山など、むしろ坂と言った方がいいようだ。

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