四文字力士たちの未来は?

2009-05-28 00:00:30 | 市民A
さる5月19日に弊「千代大海流は続くのか?」で、13回目のカド番に追い込まれていた大関千代大海について、「かっこよく勝ち越して引退したらどうだろうか」と余計な心配をしたのだが、五月場所は、5勝2敗のあと、5連敗し、5勝7敗では、「もはやこれまで」かと思いきや、大関戦で奮起し、3連勝。8勝7敗となる。今場所は5人の大関のうち一人が優勝、9勝6敗が一人。そして、日本人力士3人はそろって8勝7敗となる。

瀬戸際外交を続ける者に心配なんかする必要はない、ということだろう。

なんとなく、「800LONG」という言葉の日本語訳を思うのだが、そう書いて裁判で負けて大金を払わされた出版社があるので、もう誰も口にしなくなった。痴漢冤罪裁判の結果、痴漢に市民権を与えたようなものだろうか。

友愛精神の大関サロンに、新入大関も加わるのかどうかはわからないが、来場所の結果を見ればわかるかもしれない。

ところで、今場所優勝した日馬富士だが、力士の四股名としては珍しく、「四文字」である。

歴代の優勝者の名前に四文字はいるか、と遡ってみると・・

直近は6年前である。平成15年3月。優勝者は、大関千代大海。これが、千代大海の最後の優勝である(まだ引退していないので、決め付けはできないが)。さらに平成14年7月、千代大海。平成11年1月、千代大海、と彼は3回優勝している。

その前が、大きくあいて昭和55年1月の横綱三重ノ海(現理事長)。三重ノ海も計3回優勝している。

その前は、四文字優勝者は北の富士。昭和42年から48年までの間、10回優勝である。

そして、横綱佐田の山(元理事長)が6回優勝。ぐっと古くなって千代の山が3回優勝。

さらに、昭和初期に遡れば、横綱男女ノ川2回優勝、優勝できなかった横綱安芸の海というのもいる。

実は、この四文字優勝者たちを列記して気付いてきたが、引退後、華やかな道に進んだものと、すっかり相撲から離れたものと別れていることがわかる。

佐田の山と三重ノ海は、横綱としてはAクラスとはいえないのだろうが協会理事長となる。北の富士は、大鵬と北の湖というS級横綱をつなぐ時代に位置し、10回の優勝というのはA級横綱であったが、引退後は、人生色々といったところだ。

男女ノ川は何を考えたが引退後廃業し議員を目指したが失敗し、一文無しとなり、旅館の下足番になる。

安芸の海は、角界から足を洗って、実業家を目指すが、失敗とも成功ともいえないようだ。

千代大海と日馬富士の二人の大関の運命の針はどこに向いて止まるのだろうか。

と、いかにも書き終わったようだが、四文字優勝力士を、さらに江戸時代までサーチすると、三人の大関がいた。

釋迦ヶ嶽 寛永年間に3回。
六ツヶ峰 寛永年間に1回
江戸ヶ崎 文化年間に1回

調べているうちに、実に、江戸時代の大関が強かったことがわかってきた。

そして、相撲の歴史上、最大級の謎とされる「雷電はなぜ横綱にならなかったか」ということについて、少し感じたところがある。

当時は横綱制度がやっと確立された時代で、直前には、Aクラスの横綱である「谷風」がいた。雷電は、谷風の後継者として期待を受け、実に紛れもない最強力士だった。巨体で怪力、スピードもあり、張り手とかサバ折りといった荒技は、彼に限って禁止されていた。生涯勝率9割6分2厘。負けたのは10番だけだ。

雷電を横綱に上げるかどうかは、谷風の一存だったようだが、思うに、谷風は、スーパーS級の雷電を「横綱の基準」にしてしまうと、今後、横綱に適う実力の力士が現れないのではないか、と考えたのではないだろうか。そのため、将来の横綱の基準から大きく上抜けしていた雷電には、横綱を与えなかった。

雷電は結局44歳まで相撲を取り、妻の実家で農業をいとなんで静かに59歳の生涯を終えている。たぶん、悔しかっただろうと思う。

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