カフェ・パウリスタのこと

2019-03-06 00:00:48 | 歴史
長くブログを書いていると、以前、何気なく書いていた話が、まったく想像も付かない出来事と関係していることに気付くことがある。それが本日のテーマである『カフェ・パウリスタ』。銀座の喫茶店である。明治時代から存在する喫茶店で、ジョン・レノン+オノ・ヨーコが来日した時は、三日続けて通ったと言われる。現在でもコーヒーとケーキのセットが人気らしい。

昭和初期には、さまざまな文豪が集まってくる場所であったが、画家たちも集まっていたそうだ。その中に、長谷川利行がいた。2011年1月9日「絵画・カフェ・パウリスタ物語」に一枚の絵画の事を紹介した。1930年に『カフェ・パウリスタ』を描いた絵画だ。行方不明になっていた。長谷川が酒浸りの貧困生活をしていた時に貸間の家賃として家主に渡していた。この絵は、その後、徐々に汚れてしまい、判別が難しい状態だったのだが、所有者の孫がテレ東の「なんでも鑑定団」に持ち込み、正体が判明。1800万円の鑑定値が付く。

そして竹橋の国立近代美術館がこれを入手し、あざやかな色調を取り戻すことに成功。館内で展示されることが多い。

と、片側に奇跡のイベントがあるのだが、もう一つ、この『カフェ・パウリスタ』そのものの成立に別の物語があった。その謎を解明する単語が「パウリスタ」。サンパウロの人という意味だそうだ。

少し歴史を語ることになるが、通例によらず近い方から遠い方に向かって書こうと思う。

『カフェ・パウリスタ』の開店は1911年である。さらに横浜、名古屋、大阪と立て続けに支店を出店している。日本最初の喫茶店であり、社長は水野龍という人物。自由民権の闘士だったのだが、海外で移民の排斥運動が起きているのを見て、移民の生活改善を目標と考えた(と言われているが、実は私には確信がない)。彼は、ブラジルのサンパウロ州政府と日本人移民3000人の受入契約をまとめることになる。1908年に第一回の移民781人がブラジルに移住する。その功績をたたえ、サンパウロ政府は、水野に、ブラジルコーヒーの豆を“ただ”で提供した。

実は、ブラジルは危機に陥っていた事情がある。アメリカの南北戦争の後、世界一般に奴隷制度が禁止されていくことになった。ブラジルもそういう事情で、鞭で奴隷を叩くわけにはいかなかった。コーヒー農園の維持拡大が困難になったわけだ。南米ではブラジル以外の国がスペイン語を使い、ブラジルだけがポルトガル語を使用している。ポルトガルとスペインとは、世界の制海権をめぐり争ったのだが、手打を行って、事業ごとに分割したわけだ(二国間の比較優位理論そのままだ)。ポルトガルが専門に行うことになったのが、米大陸向けの奴隷取引。アフリカ大陸から主要な奴隷中継地であるジャマイカまで奴隷を連れてきて、受入れ各国の奴隷商人に売却していた。(ジャマイカで逃走して山に逃げ込んだ逃亡奴隷の子孫が短距離走で活躍しているという俗説もある。また欧州での取引はリバプールだったが、そこで逃げても高い山もないし、寒いから生き残れない)

つまり、ブラジルでは、奴隷がいなくなったため奴隷のように働く移民が必要だったという事情があった。

水野は、その後、自らもブラジルに移住し、別の州(パラナ州)で農園を経営するも、うまく行かず1941年には日本政府に善処を求めたが、もはやそういう時代ではなかった。第二次大戦が始まり、日本とブラジルは敵国関係になった。交換船で日本に帰国した者も多い。

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