三菱村と一本の坂道

2005-02-12 21:14:28 | 美術館・博物館・工芸品
7f30e730.jpg三菱自動車工業はとりあえず、「銀行、重工、商事」という三菱の中心企業の増資と融資でつぶれない(あくまでも短期的な話だが)。非財閥系商社の部長さんは、宴席で高笑いをしながら、「財閥の世紀は終わった」と言っていたが、「あなたの会社だって五十歩百歩」と言いたかったが今後の商談の可能性もあるのでやめた。三菱石油が日本石油に吸収され、三菱銀行は東京三菱となってバラ(?)のマークになり、ここで自動車まで身売りすると、街の中から三菱マークがなくなるところだったのだが、かろうじてマークは残っている。

ところで、上野不忍池の近くに三菱村がある。三菱経済研究所の大きな建物の中に三菱史料館がある、そして隣地には岩崎家の本邸が修復され、「旧岩崎邸庭園」として公開されている。旧岩崎邸は庭園として公開されているが、庭園はそれほどでもない。やはり住居の方が価値がある。しかし、ヨーロッパの古城のようにお宝がいっぱいということはなく、どちらかといえば何も無い。

そして、隣地の三菱研究所は平成8年に建った、立派な鉄筋コンクリート造りである。その一角、数部屋が史料館で、創業間もない頃の政府からの文書類などが展示されているが、少し寂しい。やはり重要なものは展示されていないのだろう。そして、三菱グループの資産を垣間見ることができるのだが、この上野だけではなく、あちこちに土地と設備を持っていることがわかる。堤家と異なり、郊外ではなく都心に土地がある。

ところで、この岩崎庭園と史料館の間は、一旦、敷地外に出て一般道を歩くことになるが、そこには坂があり「無縁坂」と表示されている。「無縁坂」といえば”さだまさし”が同名の暗い曲を作っているではないか。しかし、周りには歌詞とイメージの違う立派なお屋敷が多い。これこそ、歌詞と現実は無縁だ。

あまりに「無縁坂」のイメージに違和感があり、後で調べてみると坂を上りきったところに「無縁寺」があったことから、この坂道に無縁坂と名がついたそうだ(ファイアストリートみたいなものか)。そして、さらにこの無縁寺について調べてみると、無縁寺はここだけではなく、江戸中に多数あったことがわかった。回向院は、その中心的な存在で、元々振袖火事で多数の身元不明の焼死体を弔うところから始まったらしい。その他、様々な理由で、引き取り手のいない無縁遺体が日常的に多数発生したのだろう。江戸の裏面史は今やなかなか知ることが難しいのだが、少なくてもスリーダイヤモンドヒストリーよりは面白そうだ。


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