どうして馬は倭国へやって来たのか(講演会)

2019-02-21 00:00:11 | 歴史
建国記念の日の特別企画として、横浜市歴史博物館で開催された『どうして馬は倭国へやって来たのか(講師白石太一郎氏)』を聴いた。会場が一杯で、隣の部屋でライブ中継を見るという形になったため、マイクに入らなかった声は全く聞こえないので、ところどころ意味不明はあったが、おおむね理解できた。1年ほど前に堺市で大仙陵(仁徳陵)をガイドさんの説明で見ていたので、結構リアルにわかったが、現地は現地で別のアングルでも捉えているようだ。

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さて、古代史というものへのアプローチは大きく二つ。一つは文献史的アプローチ。もう一つは考古学的アプローチである。

ただ、文献の数は余りに少なく、出尽くしていると思われる。いわゆる魏志倭人伝に登場する邪馬台国が代表である。実際、邪馬台国論争に明け暮れ古代史が停滞しているのも事実だ。邪馬台国の存在は3世紀の末、西暦280年から300年あたり。その後、国が乱れて台与という女性が登場して再び世が治まるのだが、いつのことなのかよくわからない。漢の倭の那の国王というのが、日本を代表する国家だったのか、一部の王で中国の力を借りて国内統一を狙ったのかもわからないし、結果としてそうはならなかった。

そして、日本書紀と古事記というものがあるが、最初の頃の天皇の存在がはっきりしない。もともと天皇と言っていなかった。大王のわけだ。

そして、馬の話だが、魏志倭人伝には、日本には「牛馬なし」と記載されていたのだが、どうも各地の貝塚のような場所から馬の骨が発見されていて、馬は古くから日本にいたのではないかと言われていたのだが、最近の考古学でフッ素分析を行うと、もっと後世の馬の骨であることがわかってきた。つまり3世紀には魏志倭人伝の通り、日本に馬はいなかったようだ。

そして馬が倭国(日本)に入ってきたのは4世紀とされる。実在が認められる崇神天皇の陵や仁徳天皇といわれる陵の側から馬具が見つかっている。おそらく奈良の南にあった倭国(邪馬台国と思われる)が、1世紀をかけて本拠地を北上させ堺(大阪南部)までたどりついたと思われている。古墳の移動がそういう動きになっている。その間に大王の世襲が続いたのか、あるいは大王同士の権力闘争があったかはわからない。

馬に話を戻すと、朝鮮半島から戦争兵器として伝わったことは明白ということで、子馬製造工場である「牧(すなわち牧場)」は国家事業として全国に作られ、極端にいうと江戸幕府も引き継ぎ、明治政府が引き継ぎ、現在でも続いている場所がある。たとえば成田空港の場所だって、御料牧場にするかという論もあったのだが、まさにそこは4、5世紀からの牧場だったわけだ。

では、なぜ日本に朝鮮半島の戦闘用具である馬の生産地があったのかというと、四世紀の東アジアの事情があった。まず、中国が弱体化して漢民族の国家が南部に押しやられて、北部は前秦、さらに朝鮮半島は、北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に伽耶という分裂状態で、特に新羅が高句麗と同盟を組んだため、日本からは遠い方の百済が日本に助けを求めに来て連合を組むことになった。

ということで、百済から多くの人たちが渡来してきて、全国各地に広がっていったようだ。特に牧は渡来人がもっぱら運営していたということらしい。


つまり、馬のことを講演しているようで、実は古代日本の成立と朝鮮半島との関係を語っていることになるわけだ。とはいえ、それでは大和朝廷成立までに記紀に書かれているような内乱というのは4世紀のことなのか、あるいは、まったく違う時代の事なのか、どうも古代史は不思議だ。

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