世田谷城が象徴するのは平和?あるいは軟弱?

2006-09-06 00:00:24 | The 城
a46e3f43.jpg「世田谷」と言えば高級住宅街。しかし、それは最近の話で、昭和の初めまでは田園地帯だったはず。その後のドサクサで運のいいタイミングで土地を所有していた人だけが、土地成金になったのだろうが、今回は、そのあたりは、漠然と考えておく。

その高級住宅街の中にかなり小さな丘があって、そこが世田谷城址公園になっている。結構狭い。そして、夏なので薮蚊がブンブンしている。一部の堀や石垣が発掘、整備されている。天守閣は歴史上存在しない。砦のような館があっただけだ。そして、ステンレスの看板に能書きが書かれているが、書かれていないことも合わせて調べてみると、吉良家というのが城主で、南北朝時代の終わりに足利氏の流れとして、この地に住みつき、築城していた。この吉良氏は忠臣蔵の被害者である吉良上野介とは遥かな遠縁で、両家とも鎌倉時代の初めに足利から分かれたそうだ。

a46e3f43.jpgそして、大変に感動的なのは、この世田谷城と吉良家なのだが、一度も戦争をしていない。小田原北条氏の勢力が強くなると、北条氏と婚姻関係を結び、臣下に収まる。さらに、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされる直前には、さっさと北条を見捨てて秀吉の軍門に下る。その前にこの世田谷なんて、まったく魅力のない多摩川の河原の延長みたいなものだったから攻略の対象外だったのだろう。そして、秀吉は謹慎して世田谷に篭った吉良氏朝を現横浜市南区の蒔田(まいた)に移住させ、蒔田氏と改姓させてしまう。お家断絶だが、他家として再生を認めるという粋な配慮だ。

そして、世田谷城とは無関係だが、時代は江戸。吉良上野が討ち取られた後、天下騒擾の責任をとらされ吉良家は断絶。それでは、と幕府は蒔田氏に対して、吉良家再興を命じるわけだ。


世田谷城自体は、一応、整備はされたものの、こんな高級地には、もう中途半端の薮蚊発生地などなくなってもいいじゃないか、と思えてしまうのだが、区民ではないので思考を停止する。

場所は東急世田谷線の「上町駅」より徒歩数分。しかし、世田谷は、大震災の時も大空襲の時も焼け残った町。焼け残ったから逆に今が危険、という声もあるが、道が細くて曲がりくねっている。うかうかしていると住宅地の迷路の中で道を失う。しかし、周囲は豪邸が8割(貧邸が2割)。うっかり道を聞こうと思うと、余所者であることがばれてしまうので、恥かしい。どうすればいいか。実は、世田谷にも弱点がある。世田谷線だ。バスみたいなもの。踏切だらけだ。耳を澄ますと、踏切のチンチンチンチンという音が聞こえてくる。駅間距離は異常に近いから、踏切が見つかれば、また偽世田谷人に戻れる。


ところで、世田谷区と杉並区は高級住宅街で有名なのだが、どちらかというと世田谷の方は、すばらしい高級住宅がある反面、若干のアパートなどが混じっている。理由は相続税だ。土地の相続税評価額が高く、相続税が払えなくなり、所有地を部分的に切り売りしたり、アパート経営でもしなければならなくなる。それにしても、世田谷が小区画のスラム街に落ち着くまでには、まだ3世代くらいの猶予があるのだろう。そして、世田谷には、超豪華な世田谷美術館だけでなく、超豪華な世田谷文学館まである。両者とも企画展は強力だ。

ある世田谷人に、「そういった豪華な設備は不要ではないか」と聞いたところ、「とんでもない、富裕層は高い税金を払っているのだから、過剰ともいえる住民サービスは当然の対価である」というようなことを言われてヒックリガエッテしまった。

ところが、最近入手した情報では、弊住所である横浜が世田谷に打ち勝った住民サービスがあった。生ゴミの回収である。世田谷は週2回。横浜は週3回だ。(だが、これにも手厳しい返し技で反撃されそうな気もするのだが、・・)


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あの世田谷城に (なまこ)
2011-11-26 09:52:01
そんな歴史があったとは、
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Unknown (おおた葉一郎)
2011-11-26 18:12:34
なまこさま
さては、貴殿、世田谷人・・
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