私鉄沿線ぶらり歩き-北綾瀬編4

2019-04-29 00:00:53 | おさんぽ
北綾瀬駅の新設工事中の改札口から近くにあるのが法立寺。北綾瀬の散策に同行願ったさわやか風太郎さん(以下、さわ風さん)と、お賽銭を納めに行こうということになり、歩き始めるが、千代田線側が寺院の裏側になっていて、一回りすることになる。

といっても川崎大師のように裏に回るまでの間に門前町があって散財するということはない。寺の掲示板があって、アルミの踏み台に乗って行事予定を貼り替えている方がいらした。もしかしたらご住職かなと思ったが、作業中は法衣ではなく作業服なのでよくわからない。さわ風さんと、「住職か、否か」という話をして、「現役にしては高齢かな」という見立てをする。

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そして、いざ境内に入ってもお賽銭箱が見当たらない(本当はあったのかもしれない)。日蓮立像の裏の碑文を読むと、浅野家という家がこの寺院に深く関係していて開山に助力したことがわかる。墓地にも浅野家一族の墓石がならんでいる。

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そして、各家の手水桶が並んでいる場所があって、それぞれ家紋が入っているのだが、浅野家の手水桶について、さわ風さんから、「この家紋は『違い鷹の羽』ではないか、浅野内匠頭と同じだ」という指摘がある。にわかに緊張が走る。といっても確かめる方法がわからず、後日ということになる。

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後日、調べ始めると色んなことがあった。

まず、掲示板の入替をしていた方は、やはりご住職のようで、仏教界のビッグネームの方のようだ(与党の影の支配者ではない)。そもそも立正大学の学長もされていて、退職後、ご住職になられたそうだ。

そして、浅野家のことだが、浅野久右衛門という人物が江戸初期にいて、北綾瀬一帯に新田開発を行ったそうだ。ということで駅のあたりは久右衛門新田とも呼ばれていた。家紋については、浅野一族が『違い鷹の羽』を用いているが本家の方は羽の中にも渦潮が文様のように二重になっているが内匠頭は本家の簡易版を使っていた。しかも討ち入りの成功のあと、この簡易版をマネする家が多かったようだ。なかなか決定打にならない。

これらは東京都にある『浅野家文書』によるものが多いのだが、江戸初期の新田開発のことはよくわからない。しかし、根気良く調べていると、浅野文書には、安曇郡(長野県の長野か松本あたり)のことが記載されていて、1590年頃、小笠原秀政が浅野久右衛門に安曇郡稲尾の土地を与えているという史実があった。ちょうど年代は合うのだが、果たして長野にいた久右衛門と北綾瀬の久右衛門は同一人物か否か。浅野久右衛門が勤めていたのは小笠原家、戦国時代に苦戦して松本藩の藩主になっていたが、その後、家康に追随して、僅かな期間関東の古河城主になっていた。その後、再び松本城主に返り咲いている。部下も同様と思うので、関東に移住したところまでは確かだろう。

さらに浅野家のことだが、古くは清和源氏の流れに土岐氏があって、その一派が岐阜県の浅野というところに住んでいてことから浅野氏を名乗ることになったのだが、あまりはっきりしない。秀吉の外戚にあたる(といっても、ネネの親戚なので秀吉と血縁にはならない)。いずれにしても1200年の頃から1600年ころまではっきりしないので多くの浅野家分家が生じたものと思われる。

つまり、同一の久右衛門なのか否か、はっきりしないのだ。

しかし、副産物として、北綾瀬には金子五兵衛門の開いた五兵衛門新田とか新田が多いことや浅野ゆう子の祖先が浅野家にあること、幕末には北綾瀬に近藤勇が潜伏していたことなど、予想外の知識が増えたのだった。


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