「珠玉の輿」~江戸の乗物~

2009-01-25 00:00:42 | 美術館・博物館・工芸品
少し前に、愛読者bunさんから、江戸東京博物館で開催中の「珠玉の輿(たまのこし)」展(~2月1日)に行って、サマリーを報告するように言われていて、会期終了が近づいたので大慌てで出向いたら、会場は大入りだった。実際、見どころは多いのだが、とても書き切れないので簡単にまとめるしかない。

その前に、こういう歴史的美術品を楽しむためには、大きく二つの素養が必要だと思う。一つは、知識の蓄積。もう一つは想像力。残念ながら、その二つとも簡単には手に入らない。知識といっても教科書は全然ダメ。歴史上の事実には、多くの説が存在し、珍説が間違いで定説が正しいと、言い切れないことが多い。なにより歴史学者の大脳はコチコチだ。一方、想像力というのは瞬間的な感動だが、こちらは多くの品々を前にし、頭をバカにしてひらめき力を鍛えるしかない。つまりどちらも時間が熟成するようなところがある。

ブログを書いていると、書きながら、そういう理性的かつ感性的なものが、ほんの少しだけは醸成されたのではないかと思っているが、もちろんまだまだ、初心者、入門者の口である。

さて、


「珠玉の輿」という題からも、含みを感じる。「珠」はそれだけでも「たま」である。さとう珠緒という女性タレントもいる。すなわち「たまたまのこし」になってしまう。では、なぜ「玉の輿」ではないのだろうか。

この「玉の輿」ということばは、出所がはっきりしていないのである。意味は、身分の低い女性がお金持ちの男性となんらかの偶然によって結婚して、裕福になることである。例えば、1月20日は「玉の輿の日」だそうで、明治時代にモルガン家の子息と結婚した「お雪」というゲイシャさんを記念した記念日だそうだ(出所ブログ)。しかし、それでは雪の輿になってしまう。では、玉は玉宝を意味するというのなら、もともと高貴な女性の話になる。

定説なのか珍説なのかわからないが、よく言われているのが、徳川三代将軍家光と風呂場で関係を持ち、五代将軍綱吉を身篭ったとされる入浴担当係だった「お玉」。下女が一気に側室にランクアップだ。この二人の行跡のおかげで、以降の将軍は、寝室以外で発情しないように、入浴の際は浴衣状の薄着を身につけることになる。薄着を着たまま体を洗うのでは、まったくきれいにならないのではないかと思うが、これも家光のせいだ。

つまり、「珠玉」と題したのは、「お玉」の話とは関係ない!という宣言みたいなものだ。


会場に入ると、いきなり驚くのは、ピカピカの女性用の駕籠(かご)が待ち構えている。しかし、どうみても安っぽい。全体にプラステック感が漂い、金色部分は、金ではなくアルミの輝きだ。よく見ると、NHK大河ドラマ「篤姫」で使用ということになっている。確かに本物の駕籠は80Kg程度あるので、現代の駕籠かき役者が担げば、すぐに整形外科行きだ。

そして、この展覧会で、まさに主役は、「篤姫」なのである。


ここで、いきなり篤姫関係に行かずに別の観点で展示物を見回すと、見逃せないのは、「豊臣秀吉が、家康や利家らに対し、駕籠を使ってもいいと許可を与えた書面」「家康が征夷大将軍に任じられた書面」「身分に応じた乗物を定めた、武家諸法度(全4回の改定の第二回目、前述の家光の時のもの)」らがある。



江戸初期には乗物は身分の象徴で、駕籠は大名と大名の妻子にのみ認められていた。さらに、天皇家、徳川一門は、駕籠より上級として、輿が使われることになる。輿は祭りでは男衆の肩に担がれるが、乗物に使われる場合は、腰の高さで使われる。だから腕の力で吊るすことになる上、棒が二本のため、前後5人、計10人がかりである。駕籠の場合はかつぎ棒は一本なので、前後2名ずつ計4名が普通である。たとえば、大老井伊直弼が襲われたのは桜田門だが、当時の絵図をみると直弼は駕籠の方に乗っている。徳川家ではないからだ。

では、将軍の妻はと言えば、こちらも輿ではなく、駕籠である。しかし、これが絢爛豪華なのである。

会場中央に、巨大なガラスケースが置かれ、その中に、光り輝く「黒塗二葉葵唐草葵牡丹紋散蒔絵女乗物」が展示されている。これが、篤姫の駕籠である。入り口のNHK製のニセモノの千倍ほど豪華である。実は、この一品、スミソニアン協会が保管していて、2008年7月に、篤姫が使用していたことが確認されている。ずいぶんジャストインタイムである。「二葉葵唐草」は世界中で篤姫だけが使用した御紋とされる。実は、篤姫婚礼の儀で使われたとはわかっているが、薩摩からこの駕籠が来たのか、幕府が江戸城に専用駕籠として準備していたのか、今ひとつよくわからない。



というのは、このガラスケースの隣に、江戸東京博物館の所蔵品として、篤姫の姑にあたる本寿院が使用していた、「黒塗梅唐草丸に三階菱紋散蒔絵女乗物」が展示されている。一目では、そっくりである。よく見ると、部分部分で、篤姫品の方が格が上であることがわかるが、この品質格差は、篤姫が「正妻」であるのに対し、姑の本寿院が「側室」であることに因るそうだ。しかし、この二つの駕籠だが、どうみても同じ工房の同じ手の作である。

本寿院(本当の名前は美津であるのだが、美津姫とは言わない)は、「お玉」と同様の「お手付き側室」である。だから、大奥に来るのに、駕籠なんかじゃなく歩いてきたわけだ。だから、本寿院の駕籠は、江戸か上方で作られたと想像できるのだが、篤姫の駕籠を作る時に、同時に姑用にも作成されたのかもしれない。


さらに、江戸初期の綱吉以降の時代に、正妻として輿入りした時に使用された駕籠が、いくつか展示されていた。輿入するたびに駕籠が増えてしまうと、江戸城は駕籠だらけになってしまいそうだが、後の時代には、将軍家の女子が諸大名の家門に輿入する時に、昔の駕籠をお色直しして再使用していたそうだ。子沢山の家斉の時に、ずいぶん助かっただろう。





そして、これぞ本物の「珠玉の輿」が、皇女和宮。天皇家の娘である。政略結婚の犠牲者とされる。和宮が江戸城に入城するのに用いられたのが、「駕籠」ではなく「輿」である。みかけはきわめて質素である。飾り気なし。宅急便のトラックみたいだ。ただし、「輿」である。宮内庁の所蔵である。輿一台には10人が必要とされ、これで京都から江戸まで正座のままだったそうだ。輿の下部には車状の輪があり、牛に引かせたり、肩に担いだりと、中山道では途中は苦労しただろうと思う。道中、その心中はいかに。

和宮の珠玉の輿は、その後、明治二年、東京から京都へ一時戻った時に、再度使用されている。再び東京に戻った明治7年の時の乗物はよくわからない。これでも玉の輿が、憧れなのだろうか。


大河ドラマの復習をここに書く気はないので、歴史上の評価は省略するが、では、絢爛豪華な篤姫駕籠が海を渡って、アメリカのスミソニアン協会に流出していたのはなぜだろうか。幕府崩壊後も篤姫はこの駕籠を使い続ける。本寿院も同様だったが、こちらは都内に残っていた。

今、われわれが知っている事実は、篤姫駕籠がアメリカに渡ったこと。そして、篤姫が明治初頭の混乱の中で、時代に翻弄された多くの大奥関係者の救済のため、全財産を投げうち、満47歳の人生を終えた時、残したものは、僅か3円(現在価値6万円)だけだったという事実なのである。

篤姫を責めるのはやめよう。

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